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一粒の麦のように自分に死にきる祝福の秘訣

万民ニュース   第 177 号
3489
2017. 07. 23


一粒の麦がもし地に落ちて死ねば、豊かな実を結ぶ(ヨハネ12:24)信仰にあって自分に死にきる祝福の秘訣について調べてみよう。



自我が死ななければならない

「自我」というものは、人が生まれて成長しながら親・兄弟や先生、友だち、隣人など、多様な環境を通して見て聞いて経験して積んだ知識と教養によって形成される。ところが、自我はほとんど神に対して反抗するので、真理である神のことばを通して真理に変えていき、自分が正しいと思うことがみな正しいのではないことを知らなければならない。

真理に反するはかりごとと思弁が発見されれば、直ちに自分が正しくないことを認めて、真理に変えさせるために努力しなければならない。これが自分に死ぬスタート点だ(ローマ8:13)。心の真理でないものは適当に悔い改めたからといって捨てられるのではないので、火のように祈るとき、罪を捨てられるように強くされ、聖霊に助けられて火のバプテスマで焼かれて捨てることができる。

毎日が死の連続になり、罪を血を流すまで戦って捨てていくとき(ヘブル12:4)、行ったとおり報いてくださる神が霊的に強くて雄々しい者になるように祝福してくださる。自分に死ぬほどたましいに幸いを得て、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である祝福が臨むので、すべてに成功する生き方ができる。

このように御霊に属する実を結ぼうとするなら、肉においては死ななければならない(第一コリント15:42〜44)。<第二テモテ2:11>に「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。」とあるので、自分に死にきって三十倍、六十倍、百倍以上の実を結ばれるように。


家庭で死ななければならない

家庭福音化を実現するには、御国の福音と神の生きておられる証拠を持って伝道しなければならない。これが家族に受け入れられるには信頼を得るべきだが、それは家庭で自分にどう死ぬかによって決定される。

<エペソ4:22>に「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、」とある。「以前の生活」とは、神を見つける前、「古い人」の時に身についていた、良くない習慣のことだ。

たとえば、憤りが多くて、ささいなことにもよく怒ったり手を上げたりすること、お母さんがしてくれるのが習慣になって、自分の部屋がいくら散らかっていても掃除しなかったり、忙しいと言い訳して起きてもふとんをたたまないとか、脱いだ服は放っておいたまま外出するなど、欠如した姿である。

このようなことがなくなれば、「教会に通うと本当に変わったなあ」と家族が一番先にはっきり変化を感じることができる。目につく習慣を脱ぎ捨てるほど家庭で死ぬことができて、家族から信頼されるのだ。福音化された家庭でも、すべてを自分のせいにしてひとりひとりが真理にあって死ぬならば、家庭の幸福指数が変わってくる。


教会の中で死ななければならない

血縁で結ばれた兄弟より近い仲が主にあって一緒に信仰生活をしている聖徒である。彼らはこの地上でだけでなく、天国でも永遠にともにいるようになる信仰の兄弟だからだ。

ところが「自分」が生きている人は相手の過ちを見ると、自分の義で相手を指摘したり、相手の過ちを伝えたりもする。さらに相手によって自分が被害をこうむった時は、なおさら受け入れられない。私たちの罪と咎を赦してくださった主の愛を思うならば、決してそうできないのだ。

教会の中でどれほど死ぬ一粒の麦になったのかがわかる尺度の一つが「平和」である。自分の義を主張して、自分の枠に固執する人は他の人と平和をつくりにくい。自分を低くして相手に仕え、愛と徳で対するならば、皆と平和を保って一つになれる。

もし自分によくしてくれる人にはよくしてあげ、自分に仕えてよく言うことを聞いてくれる人とは平和を保っているが、そうでない人とは平和をつくれないならば、それは本当に平和を保っていると言えない。

神はすべての人と平和を保つことを望んでおられる。また、上下関係の中で秩序に従って従順と仕えで平和を保ち、所属しているあらゆる分野でも、愛をもっていつも平和を保たれるように。神は平和をつくる人によって実を結ぶようになさるからだ(ヤコブ3:18;第一コリント14:33)。


神の国のために死ななければならない

神の国が建て上げられることにおいて最も大切なのは魂の救いである。イエス様が十字架につけられて死なれたのも、罪のゆえに死に向かうしかない数多くの人を救われるためだ。聖霊を受けて力を受けた聖徒たちが地の果てにまで福音を伝えて、主の証人となるのも、神の国を建て上げるためである(使徒1:8)。

聖徒が良い行いで世の光になるとき、人々が光である神を捜す。また、主の働き人が伝道された人々を顧みて、信仰の献身と愛の労苦をしてこそ、神の国がリバイバルするようになる。

まことに主の愛を悟った聖徒は伝道することや魂を顧みることを大変だと思わない。自分のものをみな渡しながらも喜んで感謝し、自分から進んで果たすようになる。これが神の国のために死ぬということだ(ローマ8:17)。

<マタイ10:39>で、イエス様が「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」と言われた。したがって、信仰によって希望を持って自我が死に、家庭と教会の中で、神の国のために死ぬならば、父なる神は必ず驚くべき祝福の実を結ぶようにしてくださるだろう。


 

 

 
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