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純粋できよい心から出るキリストの香り
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3511 |
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2017. 04. 23 |
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救い主として来られたイエス様は純粋できよい方であられる。そのきよい心の器には御霊に属する実がたっぷり入っているのだ。御霊の九つの実が心に豊かに結ばれているなら、すべての口の言葉と行いからキリストの香りを放つようになる。<マタイ12:19〜20>にある純粋できよいイエス様の姿を調べて、その心に似せられ、責められるところのない神の子どもとして世で光と塩になるように。
争うこともなく、叫ぶこともしない心
イエス様は争うこともなく、いつも平和をつくっておられた。ご自分を殺そうとする人々も憎いと思ったりわだかまりを持ったりせず、ただ神の正しいみこころを悟れるように善と知恵のみことばを教えてくださったし、悟れなかった時は議論したり争ったりせず、静かに退かれた。聖書を読むと、何の罪もなく残酷な十字架の苦しみに遭っても、異議を唱えたり言い訳したりすることなく、かえって彼らのためにとりなしの祈りをささげられたことがわかる。
争いとは、憤って声を高くすることだけでなく、相手が気に入らなくて自分の義を主張することでもある。相手が自分に何か害を加えたのでもないのに、自分の心に合わないからといって気を悪くして議論したり争ったりするなら、その原因は自分にあるのだ。
もし私たちがすべてにおいてへりくだった心で自分を顧みて、ささいな真理でないことも受け入れずに脱ぎ捨てるなら、すみやかに主の純粋できよい心に似せられることができる。理解できなくて抱けない人はいなくて、むしろぶつかってくる人をふんわりと温かく包んであげることができる。それで、誰に会っても心がうれしくて幸せなので、父なる神もすべてのことを働かせて益としてくださるのだ。
叫ぶことは、自分を目立たせて自慢したがる心から出て来る。多くの人が自分のした事について誰かにわかってもらいたくて、自分の功を目立たせたがる。そうなので、自分が期待したほど認められないで、自分の務めや身分に相当する待遇を受けないなら、心穏やかでなくなって、むなしくなったりすることもある。
イエス様は救い主であり、神のひとり子であって、数えきれない不思議としるしを現わしても謙遜だったし、ただすべての栄光を父なる神に帰された(ヨハネ17:4)。使徒パウロは大きくて驚くべき神の力あるわざを行って、神に大いに栄光を帰したが、変わることなく彼が告白したのは「神の恵み」であった(第一コリント15:10)。
私たちもイエス様を見ならって謙遜に自分を低くして、神に認められてほめられ、すべての栄光を神に帰そうとする心にならなければならないだろう。
大路でその声を聞く者もない主の教育
人は歩き方や身のこなし、言葉からその心と性分がにじみ出るのが見られる。せっかちな人は歩くのもたいてい速く、柔和な人は静かにゆっくり歩くことが多い。歩く時も体を揺さぶる人がいるかと思えば、座っていてもじっとしていられない人もいる。話をする時も、真理でないことではなくても余計なことをよく言ったり、深く考えないで思いつきで話を持ち出したりもする。
また、人を手でたたきながら話をしたり、指をつきつけて不快感を与えたり、食べ物を口に入れたまま話をしたり、唾を飛ばしながら話をし、公共の場所で大きい声で話をしたりもする。私たちが神の子どもらしく純粋できよい人になるには、誰に会っても主の教育のとおりに話をして、善の香りを放って恵みを及ぼし、徳を養わなければならないだろう(エペソ4:29;コロサイ4:6)。
聖書に記されているイエス様の姿を調べて、これはこの上ない善と謙遜、霊の愛でぎっしりの内面から出て来たことを悟り、いつも純粋できよい心で話をして行えるように。
いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない愛と憐れみ
「いたんだ葦」とは、世の罪と悪でぎっしりになった人を指している。人は永遠不滅の霊を与えられた存在なので、肉の寿命が終わればさばきを受けることになる(ヘブル9:27)。いくら不義をたくさん行った人であっても、悔い改める良心が少しでもあるなら、神は最後まで見捨てられない。
「くすぶる燈心を消すこともない」とは、悪い人であっても、もう一度火をつけることのできる小さい火種でも残っているならば、すなわち、イエス様を救い主として受け入れる良心が少しでもあるならば、その燈心を消すことはない、という意味である。一度聖霊を受けたとしても、ひどく罪を犯して悔い改めの霊が与えられず、御霊が消されていくこともある(第一テサロニケ5:19)。ところが、御霊が火種のように少しでも残っているならば、最後まであきらめないで、完全に救われるまでつかんで無数に機会をお与えになる。
また、世の人々がいくら罪と悪の中で生きて神に立ち向かっていても、その心を開くように心の戸をたたき続けられる。イエス様は罪によって苦しんで傷ついてしまった人々を限りない憐れみと慈しみの心でご覧になり、罪人に近づくことをためらわず、彼らの心とたましいを直して永遠のいのちの道に導かれた(マタイ9章;ヨハネ4章)。
イスカリオテ・ユダがご自分を裏切って売り渡そうとする心を持ったことを知っておられても、最後まで捨てないで、他の弟子たちと同じように抱いてくださったのも、くすぶる燈心を消そうとしない心だったからである(ヨハネ13:1)。
私たちもいたんだ葦のようで、くすぶる燈心のような人を捜して行って、先にその手を握ってあげなければならない。黒白をつけたり、正しいか正しくないかを論じたりして相手を負かそうとするのは純粋できよい心ではない。真実と愛をもってよくしてあげて、悪を行う人々の心まで溶かして感動を与えるのが純粋できよい心である。
どこにいようがいつであっても濃いキリストの香りを放って、いたんだ葦とくすぶる燈心のように死にかけている数えきれない魂を救いと祝福の道に導き、神の称賛と栄光の中にとどまるように願う。
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