木の十字架はキリスト教の象徴と言える。私たちに向けられた父なる神の愛、すなわち、イエス・キリストを通した救いの摂理が込められているからだ。十字架に込められている霊的な意味を正しく知って自分のものとし、神のみこころのとおりに生きていくまことの子どもになられるように。
第一 「祝福」を意味する
古代帝国で十字架刑は、凶悪犯や反逆者のように赦されない罪を犯した人に下される、むごたらしい刑罰だった。ところが、イエス様が呪われた罪人の代わりにこの十字架刑にあって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださったのだ(ガラテヤ3:13)。
「律法の呪い」とは「罪から来る報酬は死」という霊の世界の法による呪いを意味する(ローマ6:23)。すべての人類はアダムの子孫として原罪を持って生まれ、自分でも罪を犯して生きていた。最初の人アダムが不従順の罪を犯すと、彼の血統を受け継いだすべての人が罪人として生まれ、罪の報酬である死の道へと行くことになったのだ。
ところで、罪人とされた人類を律法の呪いから解放させるには、誰かが代わりに呪いの代価を払わなければならなかった。これに神は、イエス様が呪いの象徴である木の十字架にかけられるように渡してくださった。
それで、イエス様を訪ねて来たニコデモに「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」と言われたのだ(ヨハネ3:14〜15)。
結局、イエス様は十字架を負われることによって敵である悪魔・サタンの力を打ち砕かれた。敵である悪魔・サタンは何の罪もないイエス様が死ぬようにして「罪から来る報酬は死」という霊の世界の法を自分から犯し、罪のないイエス様は死からよみがえられたのだ。したがって、十字架にかけられたイエス様を仰ぎ見るという意味は、敵である悪魔・サタンの死の力が打ち破られたことを信仰の目で見るという意味である。
このようにイエス様は呪いの象徴である十字架にかけられたが、それを信仰によって仰ぎ見るとき、永遠のいのちを賜物としていただくのだから、主を信じる者には十字架はこれ以上呪いの象徴でなく「祝福」を意味する。
第二 「犠牲」を意味する
<ヘブル9:12>に「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とある。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないので(ヘブル9:22)、イエス様はご自身が血を注ぎ出してくださることによって、罪の奴隷だった私たちが神の子どもとされることができるように犠牲の代価を払ってくださったのだ。
十字架刑はまずむちで体を打つが、むちには鉄の玉、鋭い骨のかけら、鉄片などが埋め込まれている。むちで打たれれば、深い打撲傷とともに肉が割れて裂かれていく。皮膚の下の骨格筋まで裂かれれば、肉は力なく垂れ下がるようになる。多くの血を流すので血圧が下がって、意識がもうろうとしたり気絶したりし、ひどい渇きを感じる。
このように満身瘡痍になった体で長さ2メートル、重さ40キロほどの十字架を背負って処刑場に到着すると、十字架に体を固定するために手首と足の甲に約13〜18センチほどの太くて大きい釘を手首の真ん中に打ち込む。両足を上下に重ねて、足の甲の中央の二番目と三番目の骨の間に釘を打ち込むと、神経は完全に破壊される。
手足が十字架につけられたまま垂直につるされていると、腕が引き伸ばされてすべての骨が外れる。体重によって腕が伸びきって、肩の骨がよじれて両肩は脱臼する。酸素が供給されなくて息を吸うのが難しくなるので、血液は二酸化炭素過剰で酸性が増して心臓は不規則に打ち、気絶しては目を覚ますを繰り返して結局死に至る。
十字架刑は人間が体験する苦しみの中で最悪の苦しみを感じさせる死刑法だ。救われた聖徒はイエス様がどれほど大きい犠牲を払われたかを骨身に凍みるほど感じるだけでなく、神がひとり子を惜しまず渡してくださった愛も深く悟らなければならないだろう。
第三 「愛」を意味する
<第一ヨハネ4:10>に「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」とある。神が私たちを愛し、私たちが犯した罪を赦してくださるためになだめの供え物として御子を遣わされて、十字架刑を受けるようにされたということだ。
父なる神はイエス様が受けられる十字架の苦しみがどれほど大きいのかをご存じだったが、私たちを愛しておられるので、このことをあえてなさったのだ。罪人とされた人の子らを救う道はこの道しかなかったからである。敵である悪魔・サタンは想像すらできない方法だった。イエス様も公義をはるかに超える犠牲的な愛で人類に救いの道を開いてくださった。
私たちは十字架を見るたびに、ひとり子イエス様をあれほどむごたらしい死に渡してくださるほど、父なる神が私たちを愛されたということを再確認しなければならない。この愛を心で感じた人は、その時から人生の理由と目的が変わる。
使徒パウロが「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)と告白したように、私たちも信仰によって主のみこころを追い求め、ただその方の栄光のために生きていかなければならないだろう。
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