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イエスとイエス・キリストの違い
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「イエス様の御名によって」祈る時と「イエス・キリストの御名によって」祈る時の違いは非常に大きい。 ...
       
 
  
 

何でも神に答えていただける秘訣

万民ニュース   第 146 号
5083
2014. 12. 28


<マタイ7:11>でイエス様が「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」と言っておられる。愛の父なる神は子どもたちが求めるものは何でも答えてあげたいと望んでおられるからだ。しかし、神に答えていただこうとするなら、それにかなう条件を備えなければならない。はたしてその秘訣は何だろうか?

イエス・キリストを信じて、神の子どもとされた特権と祝福を思いきりいただいて、父なる神に栄光を帰す生き方をされるように。



1. イエス・キリストを信じて より頼んでいるのか?

イエス様はすべての町や村を巡って、御国の福音を伝え、伴うしるしでみことばを確かなものとされた。足のきかない人が立ち上がって歩き、ツァラアトがいやされ、盲人が目をあけ、口のきけない人が話をして、聞こえない人が聞こえるようになり、悪霊が出て行った。それでイエス様についての噂は広がって、イエス様が行く所ではどこでも人々が押し寄せた。

ある日、物ごいをするために道ばたにすわっていた盲人がイエス様がお通りになるという知らせを聞いて「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」(ルカ18:38)と叫んだ。イエス様についての噂をずいぶん聞いていたので、確かにに自分の目をあけることがおできになると心から信じたのである。

盲人が「ダビデの子のイエスさま」と言ったのは、イエス様が救い主として来られた方であることを信じるという信仰の告白だ。イスラエルの民なら誰でも、ダビデの子孫から救い主が生まれるということを知っていたからだ。このようにイエス・キリストを心から信じてより頼むとき、答えられることができる。


2. 神の公義にかなうように 主を呼び求めて祈っているのか?

最初の人アダムがエデンの園で善悪の知識の木の実を食べる以前、すなわち、罪が入ってくる以前には、働かなくても神が与えてくださるもので豊かに生きることができた。しかし、神のことばに聞き従わないで善悪の知識の木の実を食べた後には罪が入ってきて、その時からは汗を流して苦しんで食を得なければならないようになった(創世記3:17)。

これが神が定められた法則、すなわち、神の公義である。人が汗を流して苦しんでこそ食を得ることができるように、私たちが神に答えていただこうとするなら、身と心と思いとまことを尽くして、汗を流して主を叫び求めて祈る労苦をしなければならない。

それで、<ルカ22:44>に「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあり、ヨハネ11章には、死んで四日になったラザロをよみがえらせた時も、大声で叫ばれた場面があるのだ。

<ルカ23:46>には、イエス様が大きい声で「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言われた後に息を引き取られたという記述がある。まして被造物の立場で人の力では不可能な問題に答えられようとすれば、主を呼び求めて祈るのは当然なことである


3.全き信仰の行いを 見せているのか?

<ルカ18:39>に「ダビデの子のイエスさま」と言いながら叫ぶ盲人を、弟子たちがたしなめるのが見られる。するとこの盲人はますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てながら切なる心で求める。まさにどんな状況でも移り変わらない、全き信仰を見せたのである。

もしこの人がたしなめられたとき、気を悪くしたり、気を落として黙ってしまったとすれば、目が見えるようになる祝福をいただけなかっただろう。しかし、答えられるための信仰が揺るがず確かだったので、決してその瞬間を逃さなかった。

<エレミヤ33:3>に「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」とあるとおり、本当に答えられたいと思うなら、どんな状況でも切にすがる、へりくだった姿勢を持たなければならない。


4.上着を脱ぎ捨てる 従順の行いがあるのか?

マルコの福音書10章で、盲人の物ごいバルテマイがイエス様が通られるという声を聞いて、大声で叫び立てて求めた。イエス様が彼を呼んで来るように言われると、上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエス様のところに来た(マルコ10:50)。

ところで、物ごいの上着は、汚くてひどくにおいがするが、その人にとってまことに大切な必需品だ。自分のからだを守ってくれるたった一つの財産だからだ。バルテマイは、イエスという方は聖なるきよい方で、多くの人に恵みを与えていやしてくださり、貧しい人々に希望を与えて、病人に望みを与える良いお方だと知っていた。だから、においがして醜い服を着ていてはイエス様の前に出て行けないという良心の声を聞いたので、直ちに聞き従って、上着を脱ぎ捨てたのだ。

ここには、聖なる神にお会いするためには、醜くてにおいがするすべての罪を脱ぎ捨てるべきだという霊的な意味が込められている。したがって、神に答えていただこうとするなら、心のうちにおられる聖霊が思い起こさせてくださる罪を一つ一つ悔い改めてきよい心になり、聖霊が働きかけられたことにためらわず聞き従わなければならない。


5.自分の口で 信仰を告白しているのか?

イエス様は信仰を持って叫び求める盲人に「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられた。このようにイエス様が彼の願いを知っておられるのに、あえて尋ねられた理由は何だろうか?

神から答えをいただこうとするなら、必ず信仰の告白が必要だからだ。自分の口で信仰を告白する時にはじめて答えられるのが神の公義なので、盲人は「主よ。目が見えるようになることです。」と告白して、そのとおりに答えられたのがわかる(ルカ18:41-43)。


 

 

 
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