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イエスとイエス・キリストの違い
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「イエス様の御名によって」祈る時と「イエス・キリストの御名によって」祈る時の違いは非常に大きい。 ...
       
 
  
 

幸せな信仰生活のための チェックポイント

万民ニュース   第 140 号
5581
2014. 06. 22


「あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる【主】の命令と主のおきてとを守ることである。」(申命記10:13)とあるとおり、神は愛する子どもたちが幸せな信仰生活をするように望んでおられる。はたして自分は幸せな信仰生活をしているのか?信仰生活のタイプを大きく二つに分けてチェックしてみよう。


受動的なのか、能動的なのか?

信仰生活が受動的な人と能動的な人ははっきり分けられる。たとえうわべの姿は似ているかもしれなくても、その心の持ちようは全く違うからだ。

受動的な信仰生活をしている人は依存的なことが見られる。目上の人がさせることだけして、誰かが押したり引いたりしてあげなければならなかったり、恵みを受けた時は聖霊に満されているが、時間が過ぎればだんだんなくなってしまうのだ。

たとえば、祈るとしても、受動的な人が10時間いやいや祈れば、その祈りの香はかすかで弱くなるしかない。強制的に誰かによってしぶしぶ祈るなら、疲れるしかないだろう。しかし、能動的な人は、1時間祈っても自発的に切実に祈るようになるので、祈りの香が太くて濃く立ち上ることができる。

このように自発的で能動的ということは、結局その事の価値を知っているのであり、それをやり遂げた時の味を知っているのだ。神は愛する子どもたちが健康で祝福された生き方をしなさいと戒めを与えてくださったのである。

したがって、神の愛を知って感じながら聞き従うとき、神の恵みと祝福のうちに幸せな信仰生活ができる。このような人はいくら困難で胸痛むようなことがあっても、美しい天国を思えば感謝が自ずから出てくる。神を第一に愛するので、顔に喜びが満ちている。

それでは、聖徒が受動的な信仰生活をする理由は何だろうか?それは信仰生活のまことの意味を見つけられないからだ。信仰生活をする明らかな理由と目的があってこそ、積極的で熱くなれる。みことば聞くのが好きで、祈るのが好きなら、自発的に集まることに努めて、愛をもって聖徒と交わろうとする。

<第一ペテロ2:5>に「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」とある。神の子どもたちはイエス・キリストを通して、神に喜ばれるような聖い、生きた供え物をささげる祭司にならなければならない。

もちろん信仰生活は自分の力でだけできるのではない。それで、愛なる神は助け主聖霊を神の子どもたちに賜物として与えられた。誰でもイエス・キリストを受け入れて、自分の罪をたましいを砕いて告白すれば、心のうちに聖霊が住まわれて、すべてのことを思い起こさせて教え、真理に導き入れるのだ(ヨハネ14:26、16:13)。

ある程度信仰が成長するまでは、受動的な信仰生活をしながら、誰かの助けまたは相談を受ける必要がある。だがその後は、どれほど聖霊により頼み、祈ってその答えをいただくためにどれほど自分で努力したかによって、信仰生活の成功と失敗が分かれるようになる。


目標を重視するのか、過程を重視するのか?

夢をかなえることにおいて、目標を明らかにすることは非常に重要である。しかし、目標を重視したあげく過程を見逃してしまえば、完全と言えない。

御霊に属する心に変えられることは、神のお心をさらに深く感じて、幸せと平安を心に耕していく過程である。これを慕って実践している人ならば、自分を発見して、心の真理に逆らうものを捨てていく過程がうれしくて幸せだ。しかし、目標の結果だけを重要視する人は、真理に逆らうものを捨てていく過程がつらくて苦しいとだけ思える。

まことの信仰生活をしている人は、まだ目標が達成できなくてじれったく大変だと思うのではなく、これから達成することについての望みがあるから、うれしく幸せそうに歩むのだ。それで、自分が一瞬一瞬目標を達成するために、過程をどんな心で踏んでいるかを顧みなければならない。

一つの例として、与えられた環境の中で小さいこと一つでも実践して、こつこつ信仰の段階を踏んで行くのだ。愛を込めたひと言、すきま時間にまめにささげる祈り、忙しい中でも読む聖書、このようなことが積まれて、結局望んでいる目標にさらに早く近づける。信仰生活は聖い信仰の上に自分自身を築き上げていくようなものだ(ユダ1:20)。最も美しい天国「新しいエルサレム」と神に喜ばれる信仰「全く聖なるもの」という最高の目標があるならば(黙示録21:2;第一テサロニケ5:23)、幸せな信仰生活ができる。新しいエルサレムという目標だけを追求しようとするのではなく、その過程で与えられるすべてのことを尊く思うようになる。

<マタイ20:20>以下に、ヤコブとヨハネの母がイエス様に、ふたりの息子を主の御国で主の右と左にすわれるようにしてくださいとお願いする場面がある。これに対してイエス様は「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」とお尋ねになる。当時、弟子たちはその杯の意味が悟れなかったし、それがどれほど幸いな道なのかも知らなかった。だが、聖霊を受けた後はその意味を悟って、弟子たちのほとんどが主の苦しみの杯をともに飲むことで栄光の座に至ることができた(ルカ22:28-30)。

私たちも神の栄光が満ちている新しいエルサレムを得ようとするなら、与えられた日々の中で一つ一つ公義を積んでいかなければならない。確かな望みの中で目標に向かってうれしく幸せな心で走って行くとき、全く聖なるものの心に変えられ、新しいエルサレムという最高の目標を達成できるのだ。


 

 

 
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