人が生きていながら長い年月固まった考えや行動方式は、変えるのが容易でない。これは自分の限界の中で真理を受け入れて理解するからである。 しかも真理のみことばで間違った義と枠まで作った場合、神のまことのみこころを悟るのが難しい。自分でも悟れないうちに肉の思いを働かすからだ。 「義」とは、自分が正しいと主張することを言い、「枠」とは、何々が正しいという考えがしっかり固まったものを言う。 このような義と枠の中から出てくる肉の思いを打ち砕かなければ、御霊の歩みに入れないし、その手前でとどまっているしかない。 だから、火のような祈りとともに、真理のみことばに照らして絶えず自分を発見する努力がなければならない。 それでは、御霊の歩みに入るために打ち砕かなければならない肉の思いには、どんなものがあるだろうか?
1. 気質的な枠から出てくる肉の思い
親から受け継いだ気質が自分の気の中に深く隠されていて、そこから出てくる肉の思いのゆえに、自分の欠けているところを発見することもできないし、捨てることもできないのが見られる。 ある人は内省的な気質に生まれついたので、だいたい静かで、怒ったり争って平和を壊すことがなかなか見られない。しかし、グループのリーダーになったら、状況によっては大胆で決断力がなければならないのに、消極的に対処するから、周りの人を顧みて導く面が弱い。その一方で、周りの人と引っかかることもなく、いつも相手の良いところを見ていると思うので、自分の欠けているところが悟れない。 ある人は外向的な気質を持って生まれ、熱心である反面、仕えが欠けていて、相手が自分よりすぐれていると思って安らかにしてあげる面が弱い。一歩引かなければならない時も「御霊の歩みを慕わなければ。激しく攻めていかなければ」と思って引かないから、平和をつくれない。
2. 性格の枠から出てくる肉の思い
成長しながら悲しみと恨みを持って世を暗くだけ見て生きてきた人は、環境によって否定的で暗い性格が形成され、ここから出てくる肉の思いのせいで、信仰生活もつらそうにするのが見られる。 たとえば、罪を捨てるために、答えられるために、自分なりに熱心に祈って、忠実に仕えていながらも、自分があれほど願っていた祝福を、似た境遇や務めを持った他の人が先に受けると、焦ったり気を落としたりする。 ある人はすべてのことに自分で自分を罪に定めて責め、祈る気力さえなくして、神の御前に出て行くこともできない。このように神の愛を深く感じられないから、他の人に対する時も、理解して受け入れるよりは、自分の義と枠の中で相手の欠けているところを見るようになる。だから、相手をじれったく思って、指摘して教えようとする心が先に立つ。
3. 微細な真理に逆らうものから出てくる肉の思い
心を真理でかなり耕したとしても、微細な真理に逆らうものまで完全に捨てなければ、肉の思いが出てきたりする。たとえば、助言や勧めを聞くとき、うなずきはするが、一瞬心が穏やかでなくなったりする。0.1パーセントでもこんな心があるなら、御霊の人とは言えない。ところが99.9パーセントが良い心なので、また肉の思いはほんのつかの間かすめたから覆ってしまうので、微細な真理に逆らうものが捨てられなくて、御霊の歩みの敷居を越えられないのだ。
4. 聖霊に満たされている環境にいるので隠されている肉の思い
心の地を耕すことはおろそかにしながらも、自分はいつも御霊による思いをしていると錯覚している人がいる。聖霊に満たされている環境にいるので、一瞬一瞬浮かぶ肉の思いを覆ってしまうからだ。こんな人は、いざ何かの訓練がやって来れば、信仰で勝利することができない。心の奥深くまで割礼をして、どんな状況でも聖霊の満たしがなくならないようになってこそ、真心と全く信仰が持てるのである。
5. 肉の欠如から始まる肉の思い
人が成長しながら経なければならない過程をまともに経られないことによって、普遍的に備えているべき力が欠けている状態を、ひっくるめて「肉の欠如」と言う。 たとえば、学校で授業時間に集中する訓練をしっかり受けていなければ、成長しても、他の人が話しているとき集中できない。それで、礼拝時間に説教を集中して聞けず、話をしている時も、相手の話に耳を傾けられない。目上の人の指示を耳をそば立てて聞かなかったり、心に留められなくてミスしたりする。神のみこころに逆らう心ではないが、みことばを心に糧とできないから、肉の思いを働かせるのだ。 ある人は成長期に孤立した環境で育って、コミュニケーション力や共感力が欠けている。他の人の考え方や表現方法がよく理解できなくて共感できず、すべてにおいて周りの人の心に合わせられない。自分の経験から「これがいい。あの人もそう思うだろう」と考えるが、それが合わないからだ。
6. 真理の枠から始まる肉の思い
真理のみことばをもって自分なりに解釈して「これが正しい。良い」という考えをしっかり固めたので、何が間違っているのかよく悟れない。その枠から始まった思いが合う状況もたまにあるから、自分が正しいと自信を持つのだ。 たとえば、牧者が聖徒を赦して過ちを覆ってあげる姿に感動して「赦して理解することが善だ」という枠が作られたとしよう。すると、赦すだけではいけない状況でも、同じ態度を取るようになる。ある場合は罪から立ち返れるように叱責と懲らしめが必要なのに、善の枠から出た肉の思いのせいで、その魂への神の愛をさらに深く推し量れないのだ。
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