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イエスとイエス・キリストの違い
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「イエス様の御名によって」祈る時と「イエス・キリストの御名によって」祈る時の違いは非常に大きい。 ...
       
 
  
 

[企画特集] 的外れな答えをする理由は何だろうか?

万民ニュース   第 117 号
7944
2012. 07. 22


羅針盤は東西南北を正確に教えてくれるので、飛行士、航海士、登山家、建築家など多くの人にとって助けになる。方向を正確に知ってこそ道に迷わないで、目的を果たせるからだ。
「東問西答」という言葉があるが、これは東を尋ねたところ西を答えるという意味で、質問に対してとんでもない答えをすることである。このように質問する人の意図と違った答えをする理由は何だろうか? ほとんどの場合、心が真実でないからだ。自分でも知らないうちに嘘をついたり、言い訳をしたり、弁解したりすることもこれに属する。
的外れな答えをする理由を見つけて、真実の心に変えられるとき、神が望まれる御霊の人になれる。的外れな答えをしながらも自分で悟れない、その理由を調べてみよう。



ほとんどの場合、自分に不利で、明らかにしたくないことがあるとき、隠そうとして的外れな答えが出てくる。自分はふだんどう答えながら生きてきたのか、みことばを思いながら自己採点してみよう。

「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」(マタイ5:37)


Q:「昨日、集まりに何人くらい来ましたか?」
A:「お知らせがあまり行き届いていなかったようです。」
Q:「それで何人くらい来たんですか?」
A:「たくさんは来ませんでした。」

正解:「昨日、○○人来ました。」


Q:「○○、今どこにいるの?」
A:「うん、あの、外だよ。」
Q:「そう、外ってどこなの?」
A:「うん、友だちと一緒だよ。」

正解:「今○○にいるよ。」


Q:「服、ほんとにきれいですね。新しいものですか?」
A:「ああ、これ高いものじゃありません。」

正解:「はい」または「いいえ」


Q:「お昼ごはん、食べましたか?」
A:「ああ、おなかの具合がちょっと良くなくて。」

正解:「はい」または「いいえ」


1. 不要な思いが多いからである

相手の質問に集中していなければ、聞き流してしまったり、自分の思いから、あるいは雑念にふけりながら判断するから、的外れな答えをするしかない。ある人は何かを見たり聞いたりすれば、不要な思いが次々と浮かぶので、思いをコントロールできなくて、結局、的外れな答えをするようになる。
相手が「誰がいつどこで何をしたんですか?」と質問したとしよう。肉の思いが多い人は、最初の質問を聞いたとき、どう答えるべきか悩んで、二番目の質問を聞き逃してしまう。不要な思いを遮断して、集中して聞かなければならなかったのに、その瞬間、他のことを考えていると、とんでもない答えをするしかないのだ。
また、ある人は質問を最後まで聞かないで、途中で遮ったりもする。だから、質問のポイントを正確に把握できなくて、相手が願う答えができないのだ。


2. 真実を隠したいからである

「この頃、何時間祈っていますか?」と聞かれたら、「何時間祈っています」と答えなければならない。ところが、「私はこの頃忙しくて、少ししか祈れないんです」と答えたとすれば、なぜそうだろうか? これは、事実通りに答えれば恥ずかしいし、申し訳ないと思うから、隠そうとしてこんな言葉が出てきたのだ。当座の恥ずかしさや申し訳なさから逃れるために、言い訳したり理由をつけたりするようになって、自分の誤ちを隠そうとするところから的外れな答えが出てくるのだ。


3. すでに自分の答えを持っているからである

質問をしてもまともに答えないで、自分が言うべきことだけ言う人がいる。これは、自分で答えを出しておいて、相手から自分の願う答えを引き出そうとするからだ。こんな心があるならば、目上の人が話をしているにもかかわらず、話を遮って自分が言おうとすることだけを言うのだ。
このように自分の意思を貫徹しようとする私心と欲があれば、的外れな答えが出てきて、聞き従えない。仮に自分の思いと合わなくても、自分が願う答えを勝ち取るのでなく、相手の利益を求めて従うとき、祝福の道へと導かれる。


4. 責任を回避しようとするからである

人が生きていると過ちもあり、ミスを犯すこともある。過ちとミスを認めれば、それをすみやかに挽回できる。ところが、言い訳をして、認めないで、他人のせいにして的外れな答えをすれば、しばらくは危機を免れるとしても、いつかはさらに大きい危機に直面するようになる。
ここで重要なことは、責任を他人になすりつけて自分は回避しようとしたら、相手を欺くこともあるということだ。これは神の御前に信仰が正しくないという証拠である。


5. 是非を問おうとするからである

自分の利益を求める心、自分の身に振りかかる被害に我慢できなくて、是非を問いたい心が自分の中にあるから、的外れな答えが出てくる。さらに、良い事については自分がしたと言って、そうでない事については他人に責任を転嫁する心があるならば、徹底的に捨てなければならない。根本的に、自分の身に振りかかる被害はご免だという心を捨てなければならない。


6. 言っていることの意味が理解できないからである

相手の質問をまともに理解できなければ、的外れな答えをするしかない。イエス様の弟子たちがイエス様のおことばを霊的に聞き取れなくて、間違って理解して話をするのが見られる。イエス様がどんな方なのか、霊的に悟れなかったからだ。本当にその方を信頼したとすれば、理解できないおことばを聞いても、何か意味があるだろうと思って、その意図を尋ねてみなければならない。
このように、聖書のみことばも霊的な意味で受け入れて、自分に適用すれば解答が見つかるが、肉的に解釈すれば的外れな答えが出てくる。いつも聖霊に満たされて心を真理に変えさせ、真実の心にならなければならない。


ヒント - 何かを言う前に考えるべき三つ

言葉は、私たちの心がどれほどみことばに照らして完全かを測れる物指しと言える。日常で気楽に口にする言葉が相手に恵みと感動を与えているのか、注意深く顧みる習慣を身につけて、美しく善なる口になろう。


第一、「この話は事実なのか」

今、自分がしようとする話が事実かを必ず考えなければならない。ひょっとして伝え聞いた話ではないか、噂を聞いて伝えようとしているのではないか、必ず確認して話をしなければならない。


第二、「今、この話をどうしてもしなければならないのか」

自分がしようとする話が事実に基づくとしても、この話が今どうしても必要かを考えてみなければならない。仮に自分が直接見て聞いたとしても、それをあえて伝える必要はないこともあるからだ。


第三、「はたしてこの話が相手の徳を高めるだろうか」

どうしても必要な話でも、自分の立場からしてはいけない話があって、時と場所、状況によって、してはならない話がある。はたして自分がしようとする話が事実で、すべての情況を考慮してどうしても必要な話だとしても、この話が相手の徳を高め、恵みと感動を与えられるかを注意深く顧みなければならない。


 

 

 
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