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イエスとイエス・キリストの違い
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「イエス様の御名によって」祈る時と「イエス・キリストの御名によって」祈る時の違いは非常に大きい。 ...
       
 
  
 

イエス・キリストの御名によって建てられた教会の役割は何か?

万民ニュース   第 94 号
8350
2010. 08. 22


イエス様は「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白するシモン・ペテロに「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。」と言われた(マタイ16:16-19)。この時からイエス様は弟子たちに十字架の苦しみと死、復活について知らせてくださって、救い主として神の摂理を完全に成し遂げられた。そして、聖霊を受けた弟子たちによってエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで福音が伝えられて、世界のあちこちに数え切れないほど教会が建てられた。
[ヨハネの黙示録]に記された七つの教会のように、今日、いろいろなタイプの教会がある。七つの教会の教訓は教会史の裏話ではない。時代を問わず、すべての教会を目ざめさせたいと願われる、主の切なる叫びである。万民中央教会は1982年7月25日、おとな9人が集まって10坪余りの聖殿でささげた開拓礼拝を出発点として、炎のような聖霊の働きによって、世界9,000余りの支教会とともに地の果てにまで福音を伝えている。教会の開拓記念日に際して、聖書に基づいて最も理想的な教会の姿について調べてみる。

第一に、信者が救われなければなりません

私たちが教会に通う最も重要な目的は、救われることです。罪の報いは死であるので(ローマ6:23)、罪の問題を解決してこそ、完全に救われることができます。どれほど罪が怖いのか、なぜ罪のゆえに救われないのか、どんな罪を犯せば救われないのかなど、罪についてのメッセージが伝えられなければなりません。イエス・キリストを受け入れて聖霊を受け、天国のいのちの書に名が記されれば、それは救いの始まりであり、完成は主に会う瞬間なのです。
ある人々は、主を受け入れて過去、現在、未来の罪をすべて赦されたのに、なぜ罪についてのメッセージを度々聞かされて、悔い改めなければならないのかと言ったりします。しかし、教会は救いが保たれるようにしなければなりません。高速道路に入ったからといって最終目的地に着いたのではないように、完全に救われるには水と御霊によって新しく生まれなければならないし(ヨハネ3:5)、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければなりません(ヨハネ6:53)。すなわち、みことばどおり生きて、救われるようにしなければなりません。



1. イエス様が八つの幸いを教えられた(マタイ5:1-10)と伝えられる「山上の垂訓教会」
2. イエス様がエルサレムを見て泣かれた(ルカ19:41-42)ことを記念して建てられた「主の泣かれた教会」


第二に、聖徒が聖められた神のまことの子どもにならなければなりません

主が私たちを十字架の愛で生かしてくださったのに、「もう救われたのだから思いのまま生きよう」といって良いでしょうか? 神を愛して生きていくことがその恵みに報いることと知って、神の子どもとしてすべきことをしなければなりません。教会に通いながらも心の中にある罪の性質を捨てなければ、いつかは行いで罪を犯すようになり、これによって家庭、仕事、健康の問題が起きるのです。
したがって、まだ罪が現われなかったとしても、罪を起こす可能性のある罪の性質を捨てることが大切です。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を捨てて聖められ、神のかたちを回復するほど、主の心に似せられた神のまことの子どもになれます。救われた聖徒の信仰が成長して、どんな状況でも揺れ動かない信仰、キリストの満ち満ちた身たけにまで達しなければなりません(エペソ4:13-15)。

第三に、再臨の主を宣べ伝えなければなりません

時限付き終末論は主の再臨の時を決めておいて、そこに合わせて信仰生活をさせるので、聖徒が正常な社会生活や家庭生活ができないようにします。しかし、本当の終末論はそうでなく、主がいつ自分の霊と魂を召されようが迎えられる準備をさせるのです。
教会は聖徒が目をさましている信仰生活ができるようにしなければなりません。その時に備えさせる教会と「主がいつ来られようが、この地上で一生懸命生きていきましょう」とだけ教える教会とは違います。十人の娘のたとえのように、十人がみな主の来られることを知っていましたが、油の用意は五人しかしませんでした。したがって、教会は後の世に備えて、再臨の主を待つようにするメッセージを伝えなければなりません。



3. イエス様がいつものように祈られたオリーブ山(ルカ22:44)に建てられた「万国(万民)教会」
4. ローマ兵がイエス様にいばらの冠をかぶせてむちで打った(ヨハネ19:1-3)所に建てられた「鞭打ちの教会」


第四に、聖徒が神を見つけて体験できなければなりません

教会に10年、20年と通っても、神を一度も見つけた体験がないならば、自分が通っている教会が本当に神がともにおられる教会なのかを考えてみなければなりません。信仰がないから神を見つけて体験する必要があるのではなく、むしろ信仰が大きい人が神を見つけて体験するのです。神は「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」と言われ、熱心に捜す者は神を見つけるようにしてくださいます。
信仰は霊的なものです。小学生の知識では大学生の解く数学の問題が解けないように、霊の世界について自分が持っている肉的な知識をもって問いただそうとするなら、理解できないのです。そんな時は霊的な子どもにならなければなりません。「こんなこともあるんだな」と一つ一つ受け入れていけば、後になって理解できます。神のみわざは、まず心で理解して信じれば、後には頭でも理解できるようになります。その時、神のみわざが体験できるのです。

第五に、神が立てられた牧者を信じて、信頼しなければなりません。

主のからだなる教会は神が建てられたので、その牧者も神が立てられます。この地上に主ご自身が来られて、すべての教会を治めることがおできにならないので、牧者を代わりに立ててくださったのです。使徒パウロは[第二コリント12章12節]で「使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。」と言っています。
つまり、神がご自身で立てられた牧者だということを、忍耐を尽くしてなされた奇蹟と不思議と力あるわざによって証してくださるのです。このような牧者なのに信頼できないなら、どれほど自分が神のみことばを行おうとしているのか、神の愛をどれほど感じているのか考えてみなければなりません。主のからだなる教会が正しく立つ道が、すなわち神の子どもたちが正しく立つ道なのです。



5. イエス様の死と復活を(ヨハネ20:1-8)記念して、主の墓の上に建てられた「聖墳墓教会」
6. 使徒パウロが処刑された所に建てられた「パウロ記念教会」


 

 

 
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