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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
光のほうに来る_ 「神は光であって」シリーズ6
万民ニュース
第 199 号
3230
2019. 05. 26
堂会長イ・ジェロク牧師
「しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」- ヨハネ3:21 -
光である神を愛するなら、毎日闇を脱ぎ捨て真理である光のほうに出て来る賢い人になって全き光の子どもとされるように。
地球上には数多くの植物があるが、詳しく調べてみればまことに不思議な現象が発見できる。たとえば、鉢植えを窓際に置いて数日経てば、茎の先が日光が入って来る窓に向かって曲がっているのが見られる。日光がほとんど入って来ない山林の中でも、多くの植物は何とかして光に向かって茎を伸ばす。一方、ある植物は光が来る反対方向に育ったりもする。植物の種類によって光の刺激に反応する性質が違うからである。
これを霊的に適用すれば、人にもこのような姿があることがわかる。人の心には良い心と悪い心があるが、良い心は神から来たものだから、善が好きで真理を追い求めようとする。反対に、悪い心は敵である悪魔に属し、闇が好きで、ますます罪と悪の中に落ちるようになるのが見られる。このように人の心がどれほど良いか悪いかによって、ある人は真理を行って光のほうに出て来るし、ある人は悪を行って闇に染まっていったりするのだ。
私たちの周りを見ても、自分のつらく苦しい環境を悲観して、一生を闇の道へと、堕落の道へと向かう人々がいるかと思えば、同じようにつらく苦しい環境でも、むしろ自分と同じ境遇にいる人々を助けて、満ち足りた生き方をしていく人々もいる。また、一瞬の過ちによって犯罪組織に加担したが、立ち返って誠実な市民として生きていく人々も見られる。
これを通して私たちが悟れることは何だろうか。正しい良心を持って生きていき、心が正しい人は、どんな環境と条件の中でも光のほうに行くということと、まかり間違ってつらく苦しい状況のせいで闇に染まったとしても、立ち返って光のほうに出て来ようとするということである。
それでは、私たちが主にあってどのようにすれば神の御前にさらに美しく完全な光の子どもに変えられて、栄光を帰すことができるのか調べてみよう。
1. 真理を行う者は、光のほうに来る
<ヨハネ3:21>に「真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」とある。ここで真理を行う者とは「イエス・キリストを受け入れて、真理そのものである神のことばを守り行う人」のことを言う。このような人は光の行いを通して、神から来たことを証しするようになる。
それでは、光とは果たして何だろうか。光とは霊的に「暗いところが全くない、永遠で完全な神」を意味する。完全であられる神の心が外に現れた状態を「光」という単語で表現したのだ(Iヨハ1:5;ヤコ1:17)。
<ヨハネ1:1〜5>には、神の御子であるイエス様を「光」と記してあるし、
には「傷もなく汚れもない小羊のようなキリスト」とある。すなわち、ことばが人となってこの地上に来られたイエス様(ヨハ1:14)は本質において光である神とお一つであり、いのちの光としてすべての人を照らされるということである。
したがって、光とは神、イエス・キリストであり、真理のことば自体になる。言い換えれば、神は光であって、この光は真理のことばであり、このことばが人となって来られた方がまさにイエス様なのである。ことばそのものであられるイエス様が十字架を負われたことによって愛を全うして全人類を救われたので、まことの道になられたのだ。
2. 光のほうに出て来る人々の具体的な姿
第一、神のことばを聞くことを慕って、昼も夜もその教えを口ずさむ。
福音を聞いてイエス・キリストを受け入れ、自分が罪人であることを悟って心を砕いて罪を告白すれば、誰でも聖霊を賜物として受ける。聖霊はすなわち神の心である。だから、聖霊を賜物として受けた人は自然に神の属性である光が好きになり、真理である神のことばを聞くことを慕うようになるのだ。
聖書で神のことばをこの上なく愛した代表的な人としては、詩篇を記したダビデが挙げられる。<詩篇119:97>で「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。」と告白している。それでは、なぜ主のみおしえを愛していると言うのだろうか。
たとえば、神の子どもが誰かを憎むなら、これは真理である神のみおしえと反対になるのだ。このように、真理でないものが心にあるほど御霊がうめかれるので、心が安らかになれず、苦しみが伴う。ところが「敵を愛しなさい」というみことばを心に留め、憎しみを捨てて愛するならば、心が安らかなだけでなく、上から下さる喜びで満たされるようになる。それで、<詩篇19:9〜10>にも「【主】への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。【主】のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」とあるのだ。
第二、神のことばを心に留めて、聞いたみことばを守り行う。
聖書66巻に記された神のことばは大きく「しなさい、してはならない、守りなさい、捨てなさい」に区分できる。神が「しなさい」と言われることはして、「してはならない」と言われることはしないで、「守りなさい」と言われることは守って、「捨てなさい」と言われることは捨てることが神を愛する子どもの道理である。まことに神を愛するなら、強いられて命令を守るのではなく、心から喜んで行うことができる。
に「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」とあるとおり、「安息日を聖なる日として守りなさい」と言われれば、礼拝をささげて信仰の兄弟と交わるのが幸せなので、安息日を聖なる日として守るのだ。十分の一献金や感謝献金も、やむをえず強いられてささげたり、いやいやながらささげない。施しや奉仕をする時も、自分のためにイエス様を十字架になだめの供え物として渡してくださった神の愛を知っているので、感謝の心で神にささげるのだ。
第三、神が下さった使命を尊く思って忠実である。
使徒の働きに記されているプリスキラとアクラ夫婦は、使徒パウロが2次伝道旅行中にコリントを訪問したとき、神のわざを進めていくのに大きい力になった人々である。自分の家を聖徒たちの集まりの場所として渡し、使徒パウロが思う存分福音を証しして、そこに初代教会を建てられるように配慮したのだ。
この時、彼ら夫婦がどれほど忠実に使徒パウロを助けたのか、「この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。」(ローマ16:4)と言っている。自分のいのちも惜しまず使徒パウロを助けて、神の国のために献身したのだ。このように光のほうに出て来る人々は、いくら小さいことだとしても、神が下さった使命を尊く思って忠実であるのが見られる。
第四、神の国と義のためにいのちも惜しまずささげる。
使徒パウロは主に出会う前はクリスチャンを迫害していた人である。しかし、ダマスコ途上で主に出会って変えられた後には、主が神の御子であることを伝えて、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせたかと思えば、あらゆる迫害と患難の中でも屈しないで、いのち尽くして福音を宣べ伝える。首をはねられて殉教するに至るまで、神の国のために献身したので、当時、世界の中心地であったローマに福音の花を絢爛に咲かせた。本当に信仰があって天国への希望がある人は、苦しみにあってもかえって感謝して喜んで主を証しするのだ。主のために、ののしられ、迫害されれば、天国で大きい報いとして返してくださることを信じるからだ(マタ5:11〜12)。
このように光のほうに出て来る人々の姿はまことに美しくて高貴である。神が私たちを召された目的もまさにここにある。私たちは神の選ばれた種族、王である祭司、神の所有とされた民である。神がやみの中にいる私たちを光の中に招いて、光である神のすばらしいみわざを世に広く伝えるために召されたのだ(Iペテ2:9)。光のほうに出て来る人に、神は最も美しい天国の新しいエルサレムに場所を備えてくださる(黙21章)。
ところで、光のほうに出て来るためには、まず教会に出て来なければならない。さらに、すみやかに神を見つけて答えと祝福を頂くためには、心から進んで光のほうに出て行くべきであり、口先だけでなく、心から神を信じて、真実で変わらない心で光の中を歩まなければならない(ヘブ10:22)。
私たちが心から神を信じて、真理を行って光の中を歩むとき、神もすべてのことに栄えるようになさり、聖書で約束されたすべての祝福のみことばを成し遂げてくださる。
3. 光のほうに出て来る人々が受ける祝福
世の光として来られたイエス様は真理を教えて御国の福音を証しされた。闇のほうに行く人々は悟れなかったが、心の良い人々は真理の光を通して自分の罪を悔い改めたので救われるようになった。
したがって、誰でもイエス・キリストを受け入れて聖霊を賜物として受け、御霊に従うなら、毎日御霊によって霊を生み、光の中で生きていける。このような人はたとえ知恵が欠けていて能力が足りないとしても、何の問題もない。なぜなら、光である神と交わって、聖霊の声を聞いてつかさどられていくので、すべてのことに栄える道に導かれるし、天の知恵を頂けるからである。いくら複雑にもつれた問題であっても、御霊ご自身が進むべき道を教えてくださるので、行く道がふさがれることなく、ひょっとして障害物があったとしても、十分に避けることができる。
に「…もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。」とあるとおり、世の知恵は神の御前に愚かなのだ。だから、<ヤコブ3:17>に「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」とあるように、純真な心に変えられて光に入るほど、天から知恵と悟りが与えられるのだ。
一歩進んで光にとどまれば、持っているものがなくても幸せで、乏しくても乏しさを感じない次元に至るようになる。<ピリピ4:11>で、使徒パウロが「…私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」と告白したとおり、光にとどまっていれば神と平和を保っているので、いつも心に平安があふれて喜びが湧き出る。また、すべての人と平和であり、争ったり不和になったりすることがなく、愛と恵みがあふれていつも感謝の告白が尽きない。
愛する聖徒の皆さん、
光である神を愛するならば、毎日闇を脱ぎ捨てて、真理である光のほうに出て来る賢い人になられるように。そして、光の子どもらしくこの地上ですべてに栄える生き方をするだけでなく、最も美しい天国、新しいエルサレムの主人公になって、永遠の幸せと喜びを味わわれるように、主の御名によって祈る。
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