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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

「神は光であって」シリーズ2_ 肉的なことと御霊に属すること

万民ニュース   第 195 号
2538
2019. 01. 27


万民中央聖潔教会・堂会長イ・ジェロク牧師


「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」- ローマ8:5〜6 -



肉的なこととは、まだうわべに現れはしないが、行いとして誘発されうる真理でない属性一つ一つを指し、御霊に属することとは、
聖霊が私たちのうちに来られて行うすべてのことを言う。



神は暗いところが少しもない、光であられる(Iヨハ1:5)。私たちが闇を捨てて光に入るほど、神の愛と祝福を頂くことができる。ところで、光に入るために最も重要なものは人の思いである。
もし神に対して反抗する肉の思いがあれば、罪を犯して死に至ることもある(ローマ8:7)。それなら、私たちがどのようにすれば肉の思いを捨てて、御霊による思いをして永遠のいのちと平安を持つことができるだろうか。


1. 「肉的なこと」と「御霊に属すること」を明確に区分してこそ

<ローマ8:5>に「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」とある。それでは、肉と肉的なこと、霊と御霊に属することとは何だろうか。
まずここで「肉」とは、悪い敵である悪魔を通して入って来た罪の性質と私たちのからだが結びついたものを言う。
罪を犯したアダムによって、その子孫であるすべての人が遺伝的に罪の性質を持って生まれるようになるが、これを原罪と言う。また、世で生きていながら自分で犯した罪もある。このような罪によって真理が抜けて行った人のからだに、悪い敵である悪魔を通して入って来た罪の性質が結びついたものを肉と言うのだ。
使徒パウロが「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。・・・そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。・・・ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:18〜25)と告白したとおり、もし私たちが神の律法に仕えないで、罪の律法に仕える肉に従って生きれば、神のことばどおりに生きられないから、結局、永遠の死である地獄に行くしかない。
次に「肉的なこと」とは、まだうわべに現れてはいないが、行いとして誘発されうる真理でない属性を一つ一つ分けたものを言う。すなわち、憎しみ、偽り、情欲、高ぶりなど、心の中に潜在しているあらゆる汚れたものがこれに属している。世の人々はこのような罪の属性を心に抱いているからといって、それを罪だと言ったりはしない。
しかし、神は各人の心をご覧になる方なので、まだ行いで罪を犯していないとしても、心に抱いているならば罪とみなされる。もし心の中では憎しみがいっぱいなのに、うわべでは違うふりをして飾るなら、これは兄弟を憎む罪はもちろん、偽善の罪まで加えて、神の御前に大きい罪を犯しているということを悟らなければならない。
肉的なことをもっぱら考えていただけでなく、具体的な行いとして現われたものは「肉の行い」と言う。<ガラテヤ5;19〜21>に「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあるが、このような肉の行いを総称して、これもまた「肉」と言う。
このように聖書で言う「肉」にはいくつかの意味があるが、結局は「朽ちてなくなり、変質して醜くて汚れたすべてのもの」を総称している。すなわち、私たちの目に見える森羅万象をみな肉と言うのだ。また、自分が肉的なことをもっぱら考えていて、肉の行いをしているなら、闇にとどまっているということだから、闇の権威を持つ敵である悪魔に支配されるしかない。闇を脱ぎ捨てて光のほうに出て来ないなら、相変わらず死の力の下に置かれているので、事業の場、職場に困難がやって来て、病気で苦しみ、試練、患難に落ちるようになるのだ。
それでは「霊」とは何だろうか。「変わらないもの、永遠のもの、きよいもの、完全なもの、まことで真理であり、いのちそのもの」を言う。ここで霊とは、神に属する霊のことを言うのであって、神の心である聖なる御霊が私たちの中に来られれば、御霊によって霊を生み(ヨハ3:6)、御霊の実が一つ一つ結ばれるようになる(ガラ5:22〜23)。したがって、御霊の実は私たちの心がどれほど霊に変えられたのか測定できる基準値になる。
次に「御霊に属すること」とは、聖霊が私たちのうちに来られて行うすべてのことを言う。祈り、伝道、施し、善行、奉仕など、神の御前に善を行うすべてが御霊に属することである。それで、御霊の実が豊かに結ばれるほど御霊に属することを考えるようになり、結局、永遠のいのちと平安に至れるのだ。
私たちが肉に従っているのか、御霊に従っているのかを知るためには、その行いを見れば簡単に見分けられる。たとえば、誰かが訳もなく右の頬を打ったとき、御霊に従っている人は十字架を負われた主の愛を思って、左の頬も向ける。自分を迫害して嫌う人のために祈り、どんな状況でも悲しんだり気落ちしたりせず、神が望んでおられるとおり、いつも喜んでいて感謝する生活をするだろう。このように十字架につけられた主を思って、敵をも愛するならば、光である神の愛と祝福を頂くことはもちろん、あらゆる善意と正義と真実によって光の実を結ぶことができる(エペ5:9)。


2. 肉の思いをする人と御霊による思いをする人の違い

1)神を信じて見つける分野

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる(Iテモ2:4)。しかし、救われるためには、まず心の戸を開いてイエス・キリストを救い主として受け入れ、神が定められた救いの枠の中に入って来なければならない。すべてのことに答えを頂き、神を見つける体験をするには、いつも御霊に従って、みことばのとおりに歩まなければならないのだ。
ところが、肉に従う人は自分の益を求めるので神のことばに従うことができず、闇と友になるので神に守られないから、試練、患難に落ちたり、いろいろな困難に会い、事故に遭ったりもする。
一方、御霊に従う人は神を見つけようと霊とまことによって礼拝をささげ、みことばに聞き従おうとするので、神が守ってくださり、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である祝福を頂いて、神に栄光を帰すようになるのだ。

2)病気にかかった場合

人々は病気の原因を病原菌に感染したとか、からだに無理が来たせいだと考えるので、治療する方法も病院や薬に頼るようになる。御霊による思いをする人は世の方法を使うよりは神のことばの中から答えを見つけようとする。
<出エジプト15:26>に「・・・もし、あなたがあなたの神、【主】の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたをいやす者である。」とある。すなわち、病気は罪によって来るので、病気にかかったなら、自ら省みてまず自分の罪を悔い改めて立ち返らなければならないのだ。
もちろん、病気の原因には、罪によるもの以外にも、過食や無節制なからだの使用、神経性や精神的な問題による場合もあり、また、敵である悪魔が病気をもたらす場合もある。このようなものも、根本的にはみことばどおりに生きなかったためであることを悟らなければならない。したがって、いやされるためには、みことばを守れなかったことを探して、徹底的に悔い改めて立ち返り、神との間を隔てている罪の壁を全部壊さなければならないのである。
聖書で、神により頼んだことによって病気がいやされた代表的な人物としては、ヒゼキヤ王が挙げられる(II列20:1〜7)。ヒゼキヤ王は重い病気になって死にかかっていたとき、気を落としたり、人間的な方法を使ったりしないで、神に切に祈る。すると神は三日目には病気を完全にいやして、そのいのちを15年も延長してくださった。しかし、歴代誌第二16章に出て来るアサ王は、罪を犯したことによって両足ともひどい病気にかかったとき、神に求めることをしないで世の医者に頼り、結局、死んでしまう。これは、肉の思いは死に至るが、御霊による思いはいのちと平安に至るというみことばを確かに立証してくれる事例である。

3)事業など、ある事をしようと計画する時

多くの経営者が最も重要に思うのは、どうすれば利潤を多く残すかという問題である。自分の利益を求めるなら欲が生じ、無理に事業を拡張したり、他人の金を借りて投資したりして、結局不渡りを出し、困り果てる場合が多い。もちろん、努力した分、成功を収める場合もあるが、一寸先を見通すことができないので、徒労に終わることが多いのだ。
これと反対に、御霊に従う人々は食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしていく(Iコリ10:31)。また、当座の損益を計算するのではなく、真理にかなうことなのか、相手の利益を求めることなのかをよく調べてからするようになる。最終的に何か決定を下す時は、自分のはかりごとと思弁を巡らして思いのままにするのではなく、ただ祈って神のみこころを求める(箴16:3)。今後の事を予知なさる聖霊の声を聞いて働きかけられていけば、すべてにおいて失敗がなく、成功する道に導かれることができる。
したがって、光である神の子どもは、火のように祈って肉の思いを打ち砕き、光である神のことばどおりに行って、光の中にとどまるとき、聖霊の明らかな声を聞いて導かれるようになる。しかも神の働きは御霊に属することなので、何より肉の思いを打ち砕いて、神の力と聖霊の助けによって強くされなければならない。


3. 神の力と聖霊の助けで強くされる方法

<ローマ8:7〜8>のみことばのとおり、肉の思いがあるほど神に対して反抗するので、光である神のことばを受け入れることができない。光で自分を照らしてみられず、光に入ろうと挑戦することもできないから、神を喜ばせることもできない。
それでは、どうすれば神の力と聖霊の助けで強くされるだろうか。
第一に、火のように祈ることで聖霊に働きかけられなければならない。イエス様も祈りを通して神のわざを成し遂げていかれたので、私たちも祈って聖霊に働きかけられてこそ、罪と義とさばきについて悟り、御霊によって霊を生み、御霊による思いに従うことができる。
第二、神のことばを悟れば直ちに立ち返って行う人にならなければならない。行いのない信仰は死んだ信仰であるから、みこころに従うためには、行いのある信仰を示して神を喜ばせてこそ、神の力と聖霊の助けによって強くされる。
第三、悔い改めのみわざを通して 天から来る恵みによって強くされることが非常に重要である。肉の思いは神に対して反抗するものなので、心を砕いて罪を告白することで神との間を隔てていた罪の壁を壊してこそ、神との和解が成り立つ。心に平安が臨むようになり、聖霊の炎で罪の性質が焼かれて、御霊に属することに従って行える力が与えられるのだ。
愛する聖徒の皆さん、
<ヤコブ1:17>に「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」とある。肉的なことと御霊に属することを明確に区分し、相変わらず肉的なことをもっぱら考えるのをやめて、御霊に属することをひたすら考え、光の中にとどまられるように。
光の子どもは神が約束なさったとおり、入るときも出るときにも祝福され、貸すであろうが借りることはなく、かしらとなる祝福を受け、求めて、捜して、たたくことはみな答えていただく、驚くべきみわざが体験できるのだ。すみやかに闇から出て、完全に光の中にとどまり、いつも成功して祝福された生き方をされるように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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