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燃える蛇と十字架
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2495 |
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2018. 11. 25 |
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堂会長イ・ジェロク牧師
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」 (ヨハネ3:14-15)
民数記21章を読むと、神はエジプトから出たイスラエルの民が乳と蜜が流れる祝福の地に入る資格を備えるように、荒野暮らしをするようになさる。
しかし、彼らは困難がやって来るたびに、四百年間の奴隷生活から解放してくださった神とモーセに向かって不平を言ってつぶやく。これによって神の御怒りが臨んだので、多くの民が致命的な毒を持つ燃える蛇にかみ殺された。
その時はじめて民は悔い改め、モーセが彼らのために祈ると、神は、青銅で燃える蛇を作り、それを旗ざおにつけて仰ぎ見るようになさった。それでモーセがおことばどおりに青銅の蛇を作り、それを旗ざおにつけた。するとすべてかまれた者は青銅の蛇を仰ぎ見ることによって生きた。
1. 燃える蛇の出来事を通して悟るべき霊的教訓
1) どんな問題があっても神の御前で解決されなければならない
神は万物をつかさどる全知全能のお方なので、燃える蛇が出て来るようにも、燃える蛇の災いから救い出してくださることもおできになる。もともと荒野には燃える蛇とさそりが多いのだが、神が守ってくださると、燃える蛇が現れなかったのだ。しかし、イスラエルの民が神につぶやくと、それ以上守られることができずに、燃える蛇が現れ、結局、民が害をこうむったのだ(民21:5-6)。したがって、イスラエルの民は燃える蛇という問題の原因とその解決を神から見つけなければならなかった。
ここで「燃える蛇」とは、敵である悪魔・サタンを意味する。<創世記3:14>で、神が女を惑わした蛇に「一生・・・ちりを食べなければならない。」と仰せられたが、「土」は「ちりで造られた人」のことを言う。最初の人アダムが罪を犯した後、罪の中で生きていく人々は試練・患難をもたらす敵である悪魔・サタンのえじきになったのだ。
それで、神の子どもたちは事故や病気、困難にあえば、根本原因を知って、その問題を解決しなければならない。神が守ってくださる時は、試練・患難がやって来ないからである(Iヨハ5:18)。イスラエルの民が悔い改めてモーセの前に出て来たように、誰でも神の御前に出て来て、心を砕いて罪を告白し、罪の隔ての壁を壊して光の中で生きていくとき、どんな問題でも解決されることができるのだ。
2) 信仰の試練に会うとき、ただ感謝と喜びをもって通り抜けなければならない
聖書を読めば、昔の信仰の人々も、神が約束された祝福を受けるまでは、長い間いろいろな苦しみを体験して、試練の歳月を送らなければならなかった。イスラエルの民が荒野で試練に会ったのも、結局は祝福の地カナンを得るための過程だった(申8:15-16)。彼らが神を信じてより頼んだならば、つぶやくよりは、祝福を下さる神の愛に感謝して、自分たちの姿を変えさせなければならなかった。
誰でも感謝と喜びをもって試練をよく通り抜ければ、必ず約束の地カナンに入ることができる。<ローマ8:18>に「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」とあるとおり、どんな状況でも慈愛に富む神を信じることによって最後まで耐え忍び(ヤコ5:11)、感謝する時でこそ、備えられた祝福を頂くことができるのだ。
3) 青銅の蛇を見て信仰を持つようにされた神の愛を悟らなければならない
イスラエルの民が燃える蛇にかまれたとき、旗ざおにつけられた青銅の蛇を仰ぎ見てこそ生きることができた。それなら、全能の神が青銅の蛇を見せないで、神の力だけで治るようにはおできにならなかっただろうか。
もしイスラエルの民に、マタイの福音書8章の百人隊長のような「ただ、おことばを下さい。」という信仰があったとすれば、「いやされなさい」というおことばだけ下さってもよかっただろう。しかし、イスラエルの民にはこのような信仰がなかった。
神の力がいくら大きくても、信じられなければ役に立たないので、神は信じられるように目に見える信仰のしるしを下さったのだ。自分たちに害を与えた燃える蛇の形が旗ざおにつけられているのを見るとき、神が燃える蛇の災いから救い出してくださったことを、より具体的に心に信じることができたからである。
2. イエス様の十字架の出来事を通して救われるようになさった摂理
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」とあるが、これはイエス様の十字架の出来事を意味している。モーセが青銅で燃える蛇の形を作って旗ざおにつけたように、罪のないイエス様が全人類の罪を贖おうと、十字架につけられたのである。
それなら、蛇は霊的にサタンを意味するが、旗ざおにつけられた青銅の蛇を仰ぎ見ることと、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見ることを、なぜ同じように言われたのだろうか。
イエス様が木の十字架にかかられたことが、すなわち敵である悪魔・サタンの滅びを意味するからである。十字架につけられたイエス様を仰ぎ見ることは、敵である悪魔・サタンの死の力を打ち砕いてよみがえられた主を信仰の目で仰ぎ見るのと同じである。
「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)という霊の世界の法則によって、罪を犯したアダムとその子孫は死の刑罰を受けるようになった。このような人類を救おうとイエス様がこの地上に来られたが、敵である悪魔・サタンは何の罪もないイエス様を十字架につけて殺した。
イエス様を殺せば自分たちが永遠に権勢を味わえると思ったが、これによって敵である悪魔・サタンはかえって死の力を渡さなければならなくなってしまった。死の刑罰は罪人にだけ当てはまる霊の世界の法則だが、敵である悪魔・サタンがこれを破ったからである。
したがって、誰でもイエス様を救い主として信じれば、敵である悪魔・サタンは彼らを自分の権威の下から渡してやるしかなくなった。何の罪もなく木の十字架にかけられて死なれたイエス様を救い主として信じる者はみな、すべての罪が赦されて救われ、神の子どもとされた特権と祝福を頂ける道が広く開かれたのだ。
愛する聖徒の皆さん、 約二千年前、イエス様の十字架の出来事により、誰でも信仰によって救いと永遠のいのちはもちろん、答えと祝福の人生を営むことができるようになった。十字架のことばを明らかに悟って、この地上でも神の子どもとされた特権と祝福を頂き、天でも永遠の栄光のうちにとどまられるよう、主の御名によって祈る。
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