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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

主を信じると言っても救われない場合

万民ニュース   第 189 号
2364
2018. 07. 22


堂会長イ・ジェロク牧師


「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、・・・」 (マタイ7:21)


「・・・死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」(第一ヨハネ5:16)




主を受け入れた人々の究極的な目的は、まことの救いを得て天国に入ることである。もし「主よ!主よ!」と言いながらも天国に入れないならば、どれほど悲痛なことだろうか。前号に続き、信じると言っても救われない場合について調べてみよう。


1. 聖霊をけがし、冒涜し、逆らう場合

前号で死に至る罪、すなわち、聖霊をけがし、冒涜し、逆らうとは、聖霊のみわざを妨害する言葉と行いで神のみわざがなされないように立ち向かうことだと伝えた(マタイ12:31,ルカ12:10,マルコ3:20〜30)。これは世の人々が教会を迫害するのと違って、信仰があると言い、真理を知っていながらも、自分の悪のゆえ神のみわざに立ち向かうことだから、救われることができない。

神の力で病気とわずらいがいやされ、悪霊が退くなどのみわざを見て「サタンのしわざ」だと言って聖霊のみわざをけがし、冒涜して逆らうなら、どうして神を信じる人だと言えるだろうか。まことに神を信じる心の良い人ならば、力あるわざを見て、神に感謝と栄光を帰すようになる。

しかし、心に悪のある人々は聖霊のみわざを認めないで、神に立ち向かう。悪い霊どもには人の病気をいやしたり、わずらいを直したりする力もない。仮にそのような力があったとしても、悪い霊どもが悪霊を追い出して病気をいやし、神に栄光を帰すようにさせるはずがない。また、神の力を行う神のしもべをそしることも同じである。これは、神がともにおられる人を認めず、その人を通して現れる聖霊のみわざに逆らうことであるから、結局、神に立ち向かうことになる。

エジプトから出て来たイスラエルの民が食べる物がなくてモーセとアロンにつぶやいたとき、モーセは「あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、【主】に対してなのです。」と言った(出エジプト16:8)。使徒の働きを読めば、アナニヤとサッピラ夫婦が土地を売って神にささげようと定めたが、欲が出て、地価の一部を隠してペテロに全部を持って来たふりをした。これはペテロを欺いたのではなく、聖霊を欺いたのであり、神に偽りを言ったことであるから、悔い改めの機会も得られないまま死んでしまった(使徒5:1〜6)。したがって、聖霊をけがし、冒涜し、逆らって神に立ち向かうことは決してあってはならない。


2. 神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える場合

<ヘブル6:4〜6>には「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」とある。これは、聖霊を受けて恵みの体験をした人が、天国と地獄があることを知って、真理のみことばを聞いて知って信じながらも、世の誘惑を受け入れて神を離れて堕落することによって明白に神の栄光を遮ることを言う。

もし福音を聞いて教会に来て、知識的な信仰にとどまっていて世に落ちてしまったならば、いつかもう一度救いの恩恵をいただくこともあるだろう。
しかし、聖霊のみわざを体験したのに世に戻った人々は闇でぎっしりなので、もっとサタンのしわざを受けるようになる。もともと神を信じなかった人よりさらに悪を現して、前に受けた恵みを否定し、かえって教会と聖徒たちを迫害したりもする。このように主の十字架に恥辱を与える人々は悔い改めの霊を受けられないので、結局、死に至るようになる。

イエス様の弟子であったイスカリオテ・ユダを見てもわかる。その目でイエス様のお働きを見守ったのに、自分の利益のために師のイエス様を銀貨三十枚で売ってしまった。そして結局、悔い改めの機会さえ得られないまま、自殺してしまったのだ。


3. 真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続ける場合

<ヘブル10:26〜27>には「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」と記されている。真理を知って、信仰があると言いながらも、神が禁じられた不法をわざと行う人々の場合である。

<第二ペテロ2:21〜22>に「義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる』とかいう、ことわざどおりです。」とある。このように、ことさらに罪を犯す人は過ちと知って悔い改めた後も、同じ罪を繰り返すのである。

イスラエルの王ダビデがつかの間誘惑に陥って、殺人という大きい罪を犯したことがあった。しかし、ダビデは預言者が来て指摘すると、すぐに悔い改めて立ち返る。それによって大変な試練に会った時も、へりくだった心で通り抜け、心の中の罪の性質まで引き抜いて、結局、神の御前に全き人に変えられた。反対に、サウル王は預言者サムエルが諭しても、かえって弁解して悔い改めず、毎度罪を犯したので、結局退けられた。

今日も同じである。信仰があって、真理を知っている人が罪を犯せば、聖霊がうめいて悟らせてくださるので、徹底的に悔い改めて光の中にとどまり、良い実を結ばなければならない。しかし、ことさらに罪を犯せば、神が御顔を背けられるので、悔い改めの霊を受けることができなくなり、結局、御霊が消されるしかない(第一テサロニケ5:19)。


愛する聖徒の皆さん、
主を受け入れていのちの書にその名が記されたとしても、罪を犯した後、神に悔い改めて罪の壁を壊さなければ、名が消えることになる(黙示録3:5)。ひょっとして死に至らない罪でも、捨てないで持っていれば、御霊に満されることができないし、サタンに惑わされて死に至る罪を犯すこともあり、救われるとしても、やっと恥ずかしい救いを受けるほかない。したがって、罪と血を流すまで戦って捨て(ヘブル12:4)、悪はどんな悪でも避けるように(第一テサロニケ5:22)、私たちの主イエス・キリストの御名によって祈る。


 

 

 
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