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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

主を信じると言っても救われない場合

万民ニュース   第 188 号
2733
2018. 06. 24


堂会長イ・ジェロク牧師


「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、・・・」 (マタイ7:21)


「・・・死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」(第一ヨハネ5:16)




救い主として来られたイエス様が十字架につけられて、遺言のように最後に残された七つのことばがまさに十字架上の七つのことばである。いのちが尽きる最後の瞬間まで、何としてでも霊的ないのちを植えつけようとイエス様が残された十字架上の七つのことばのうち、第四〜六のことばについて調べてみよう。


マタイの福音書25章に記されている賢い五人の娘は花婿を迎えて婚宴に入るが、愚かな五人の娘は花嫁の資格を得られない。ここで「五人の娘」とは、天国を望む聖徒たちを、「花婿」とはイエス・キリストをたとえて言っている。このように、信じると言っても愚かな五人の娘のように救われることのできないのは果たしてどんな場合だろうか。


1. 不法を行う場合

<マタイ7:21>に「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」とある。また、主の御名によって預言者のように振る舞い、悪霊を追い出し、多くの神の力を行っても、イエス様は「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われた(マタイ7:23)。いくら主を信じて主の御名によってあることを行っても、不法をなす者には、主は知らないと言っておられるのだ。

それで、世の終わり、すなわち、さばきの時が来れば、不法を行って、かえって他の人にまでつまずきを与えた正しくない人々を分けて、火の燃える炉、すなわち、地獄の刑罰の中に置かれることになる(マタイ13:40〜42)。

ここで「不法」とは何を言っているだろうか。<第一ヨハネ3:4>に「罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」とあるので、真理の法、すなわち、神のことばに逆らうことが不法であり、罪である。聖書に「しなさい」「してはならない」「守りなさい」「捨てなさい」というみことばのとおりに行わない人、このような人が罪を犯す人である。

<第一コリント6:9〜10>にも「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」とある。したがって、いくら主を信じると告白しても、罪から立ち返らずに不法を行えば、神の国、すなわち、天国を相続することができないから、地獄に行くしかない(ガラテヤ5:19〜21)。

ひょっとしてこのようなみことばを聞いて「初心の者の場合、罪を犯すことはあるだろうに、罪のせいで救われないと言えば、救われる人がどれくらいになるのか」という疑問が湧くこともあるだろう。誰でも主を受け入れたからといって、直ちに罪をすべて捨てられるのではない。まだ罪をすべて捨てていなかったとしても、祈って変えられるために努力することだけでも、神は救われる信仰があると認めてくださる。

しかし、初心の者ではないのに、罪を捨てようと努力することもせず、相変わらず世の垢にまみれて、罪を犯しながら主を信じると告白するならば、偽りを言っているのであり、不法を行うことだから、結局救われることができない。


2. 死に至る罪を犯した場合

<第一ヨハネ5:16>を読めば「・・・死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」とある。死に至らない罪を犯した人々のためには熱心に勧めて祈ることによって罪から立ち返るようにしなければならないが、そうではない死に至る罪もあるということだ。

それでは、死に至る罪とは何だろうか。<マタイ12:31>に「・・・人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」とあり、<ルカ12:10>には「たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。」とある。ここで「聖霊をけがす」とは、聖霊の力で現れる神のみわざを悪霊やサタンのしわざと言って、聖なる御霊を汚れた悪霊やサタンだと冒涜することを言う。

また「御霊に逆らう冒涜」とは、聖霊のみわざが現れるのを見ても、自分の中に悪があるので、神のみわざを否認して神のわざが行われないようにすることである。たとえば、聖霊のみわざが熱く現れている教会を見るとき、「異端だ。間違っている」と言って、デマをまき散らして謀略する場合である。これは創造主の神に立ち向かって、神の国が建て上げられるのを妨害することだから、恐ろしい罪である。一歩進んで、聖霊のみわざに立ち向かう詭計を立てて行うなど、妨害する行いがさらに大きく現れる時は「聖霊に逆らう」ことになる。

<マルコ3:20〜30>を読めば、聖霊をけがし、冒涜して逆らうことがどれほど大きい罪なのかわかる。心の良い人々はイエス様の噂を聞いて神に栄光を帰したが、悪い人々は悪い話を作って伝えた。「気が狂ったのだ」「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言いながら、聖書を研究しているという律法学者とパリサイ人たちが先立ったのだ。

そこでイエス様は彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。」と言われた。これは悪い霊の世界も徹底的に秩序を維持していて、悪霊が悪霊を追い出すことはなく、サタンがサタンを退けることもないということである。

また、イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」と言われた。イエス様の働きを見て悪霊のしわざだと言って、聖霊のみわざをけがして冒涜して逆らった人は救われないからだ。

きのうもきょうも、いつまでも、同じ神は、今日も喜ぶ神の力の人々を通して不思議としるしを現わされ、これを通して生きておられることを証明なさる(ヨハネ4:48)。だから、神を信じると言って聖霊のみわざを冒涜したり逆らってけがすことは断じてあってはならない。

愛する聖徒の皆さん、
このように信じると言いながらも救われない場合があることを悟って、決して不法を行ったり死に至る罪を犯したりすることなく、ただ信仰と従順によって天国まで至るように主の御名によって祈る。


 

 

 
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