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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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イエス様の十字架上の七つのことば(3)

万民ニュース   第 185 号
2863
2018. 03. 25


堂会長イ・ジェロク牧師


「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。…」(マタイ27:46)


「この後、イエスは…『わたしは渇く』と言われた。…イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。…」(ヨハネ19:28〜30)




救い主として来られたイエス様が十字架につけられて、遺言のように最後に残された七つのことばがまさに十字架上の七つのことばである。いのちが尽きる最後の瞬間まで、何としてでも霊的ないのちを植えつけようとイエス様が残された十字架上の七つのことばのうち、第四〜六のことばについて調べてみよう。


第四のことば「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

イエス様は大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたが、このみことばは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。これは、イエス様が神を恨んだり、十字架の苦しみによってうめかれたりしたのでは決してない。ここには重要な霊的な意味が込められているが、はたして何だろうか。

当時、イエス様は木の十字架にかけられて六時間も血を流された(マルコ15:25〜34)。大声を出すほどの気力が残っていないところである。それでも力を尽くして大声で叫ばれた理由は、人々がこのことばを聞いて「なぜイエス様が神に捨てられなければならなかったのだろうか。なぜむごい十字架刑に処せられなければならなかったか」を悟ることを望んでおられたからである。

イエス様が十字架刑に処せられた理由は、すべての人類の罪を贖うためである。すべての人が律法の呪いによって神から捨てられる運命だったので、イエス様が代わりに呪われて、神から捨てられたのだ。このような意味をすべての人が知ることができるように、イエス様は全力を尽くして叫ばれた。
また、神が罪人のためにひとり子まで渡してくださったのに、相変わらず数えきれないほどの人がこれを知らないで、世と友となって死の道に向かっているからである。すべての人がイエス様が十字架につけられた理由を知り、救い主として受け入れていのちを得てほしいと、大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたのだ。

したがって、イエス様が私たちの罪によって捨てられ、木の十字架にかけられて死なれたことを心から信じるなら、これ以上罪の中にとどまらず、聖め別たれた生き方をして、神を「父」と呼べる子どもたちにならなければならない。また、十字架のことばを熱心に伝え、真理を知らずに死へ向かっている魂を救いの道に導かなければならないだろう。


第五のことば「わたしは渇く」

人が血を多く流せば、激しい喉の渇きを覚えるようになる。しかもイエス様は長時間熱い太陽の下で十字架につけられておられたから、どれほど喉が渇かれただろうか。そうかと言って、イエス様が単に喉の渇きを訴えようと「わたしは渇く」と言われたのではない。これには霊的な意味が込められている。すなわち、イエス様の血の代価で贖われたものをお返しすることによって、その喉の渇きを解消してほしいと頼んでおられる、霊的な意味なのだ。

それでは、私たちはどうすればそれができるだろうか。イエス様が血を注ぎ出された理由は罪人となった人類を贖うためであるから、イエス様の血の代価をお返しするとは、まさに地獄に向かっている人々を熱心に伝道して、天国に導くことである。直接伝道すること以外にも、魂の救いのために祈ることや、宣教のために物質で蒔くことなど、間接的に魂を救うことができる。

イエス様が「わたしは渇く」と言われたので、ある人が海綿に酸いぶどう酒を含ませてイエス様の口もとに差し出した。この時、酸いぶどう酒を受けられたのは喉の渇きを解消しようとなさったのではなく、旧約の預言(詩篇69:21)のとおり霊的な意味があるからである。

これは、イエス様が酸いぶどう酒を飲んで、私たちには新しいぶどう酒を飲むようにされたということを表わしている。古くなってしまった酸いぶどう酒は旧約の律法を意味し、新しいぶどう酒はイエス様によって全うされた新約の愛のおきてを意味している。

旧約の律法によれば、罪人は必ず罪に伴う刑罰を受けなければならず、罪の赦しを受けるなら、動物をほふって血のいけにえをささげなければならなかった。ところが、イエス様がご自身で贖いの供え物となられて十字架で死なれることにより、律法のすべての呪いを贖われたので、私たちのために酸いぶどう酒を受けられたのだ。

したがって、これを信じて心から悔い改めれば、罪が赦されることができるようになった。これがまさに新しいぶどう酒を飲むことであり、イエス様はこれを悟らせようと酸いぶどう酒を口につけられたのだ。


第六のことば「完了した」

<ヨハネ19:30>前半節に「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。」とあるが、ここで「完了した」とはどんな意味だろうか。人類の贖いの摂理を完了された、すなわち、イエス様が愛で律法を全うされたという意味である。

律法によれば「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)なので、すべての罪人は地獄へ行かなければならない。また、神の民が罪の赦しを受けるには、毎回牛や羊をほふって血のいけにえをささげなければならなかった。しかし、イエス様は木の十字架にかけられて死なれたので、律法の呪いをただ一度で贖われた(ヘブル7:27)。

このようにイエス様の贖いは人が想像できない、とてつもない愛によって全うされたのだ。尊い神の御子はこの地上に来て罪人たちの手によって捕らえられ、むちで打たれていばらの冠をかぶり、手と足に釘を打たれるというあらゆる苦しみを受けた後、完全に死なれてから三日目によみがえられた。

それで人類を支配していた敵である悪魔・サタンの死の力が打ち砕かれ、誰でもイエス・キリストを信じることで永遠のいのちを得て、天国に入れるようになったのだ。このようにイエス様はとてつもない愛と犠牲によって神の摂理を全うされ、王の王、主の主になられたので、救われた聖徒も神のみこころを完全に実現しなければならない。

神のみこころは主に似せられて完全に聖くなることであり、完全に忠実な者になることである。御霊の実、霊の愛、八つの幸いが心に臨み、「地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われたとおり、魂の救いに努めなければならない。それでまめに花嫁の備えをし終えて、使命をよく果たし、また来られる主を迎えるとき、「完了しました」と告白することができなければならないだろう。


愛する聖徒の皆さん、
十字架上の七つのことばの霊的な意味を心に深く刻み、日ごと神の御前にふさわしく生きて、やがて天国で最も栄えある場所に永遠に主とともにとどまられるよう、主の御名によって祈る。


 

 

 
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