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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

世界の始まる前から隠されていた奥義

万民ニュース   第 176 号
2962
2017. 06. 25


堂会長イ・ジェロク牧師



「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」(第一コリント2:7)




神は世界の始まる前から、人間耕作を計画しながら人間の救いの道も備えておかれた。しかし、救いの摂理を成し遂げるために、時が来るまで徹底的に奥義として隠しておかなければならなかった。はたして世界の始まる前から隠されていた人間の救いの道とは何だろうか。


1. 奥義として備えておかれた人間の救いの道

最初の人アダムとエバが蛇に惑わされて、善悪の知識の木の実を食べて呪われるようになったとき、神は人類の救いについて預言なさった。<創世記3:15>に「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とある。霊的に「女」とはイスラエルを意味し、「女の子孫」とはイスラエル民族の中に来られるイエス・キリストを意味する(黙12:5)。このように神はイスラエルから敵である悪魔・サタンの力を打ち砕いて、人類を救う救い主が出て来ることを知らせてくださった。それで、敵である悪魔・サタンも、やがて来られる救い主を亡き者にしようと血眼になったのだ。

ついに二千年余り前、イエス様がイスラエルのベツレヘムでお生まれになり、敵である悪魔・サタンは当時イスラエルを治めていたヘロデ王をそそのかして、イエス様を殺そうとした。これに対し、神は主の使いがヨセフの夢に現れて、イエス様を連れてエジプトに逃げるようになさった。しかし、その後も敵である悪魔・サタンはパリサイ人や祭司長など悪い者たちに働きかけて、絶えずイエス様を殺そうとしたが、神は時期が来るまで守ってくださった。

時期が来るとイエス様は悪い者に捕えられて、むごたらしく十字架につけられて殺された。敵である悪魔・サタンはイエス様を殺すことですべてが解決されたと思っていたが、まさにここに神の奥義が隠されていた。イエス様を殺すことで敵である悪魔・サタンは自分で霊の世界の法則を破って、神の摂理を実現する道具になったのだ。


2. 十字架につけられて死なれてからよみがえられたイエス・キリスト

<ローマ6:23>に記されている「罪から来る報酬は死」という霊の世界の法則によれば、死という刑罰は罪人にだけ該当する。ところが、敵である悪魔は罪が全くないイエス様を殺したので、結果的には霊の世界の法を破ったことになった。そして、法を犯した代価として自分の権力、すなわち、人を支配して死をもたらす権力を手放すしかなくなったのだ。

イエス様は十字架につけられて死なれたが、全く罪がなかったので、死の力を打ち砕いてよみがえられた。それで、誰でもこのような主イエス様を信じれば、敵である悪魔・サタンの死の力から解き放されて、天国に入ることになったのだ(ローマ5:18〜19)。つまり、女の子孫が蛇の頭を踏み砕くという預言が正確に成就したのだ(創3:15)。

もしこのような神の知恵を知っていたなら、敵である悪魔・サタンがどうしただろうか。決してイエス様を十字架につけなかっただろう(第一コリ2:8〜9)。神とお一つであられるイエス様はこのような摂理をご存じだったので、完全に神のみこころに従って殺された。そして、これを通して救いの摂理を全うされた。<ローマ10:10>に「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあるとおり、誰でも十字架につけられて死なれてからよみがえられたイエス・キリストを心に信じて口で告白すれば、信仰によって救われるようになったのだ。


3. イエス・キリストを信じて似せられていけば、救いと復活、永遠のいのちと天国が与えられる

それでは、私たちが信仰によって主と一つになるということはどんな意味だろうか。<ヨハネ6:56>に「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」とあるとおり、私たちが聖書に記された主のみことばを糧として守り行うことで信仰の証拠を見せるとき、私たちが主のうちにとどまり、主は私たちのうちにとどまっておられるということだ。

もちろん、主を受け入れたからといって、今すぐ真理のみことばを完全に守って生きるのはやさしくはない。しかし、守るために努力する心の時は、神がこれを信仰と認めてくださる。このようにみことばを糧として主に似せられていくことが、すなわち、私たちが信仰によって主とつぎ合わされて一つになるということである。

<第一ヨハネ1:7>に「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあるとおり、私たちが光であるみことばの中を歩むとき、イエス様の尊い血が私たちをすべての罪からきよめてくださる。そして、イエス様がよみがえられたように、やがて私たちも復活の栄光にあずかることができるし、永遠の天国で幸せを味わえるのだ。


4. 水と御霊によって新しく生まれ、光の中にとどまってこそ神のまことの子ども

<黙示録3:20>に「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とある。誰でも心の戸をあけて主を受け入れれば、罪を赦して、彼とともにいてくださるということである。

したがって、私たちが心の戸をあけて主を受け入れるためには、何よりまず思いの戸をあけなければならない。みことばを聞くとき、自分の思いと知識に固執せず、イエス・キリストを認めて受け入れなければならない。そうする時にはじめて神が私たちの中に聖霊を下さり(使徒2:38)、まことの信仰とみことばどおり生きられる力を与えてくださる。

これがすなわち、水と御霊によって新しく生まれるということであり、神の子どもとされた特権を得て、天国のいのちの書にその名が記されて、神のまことの子どもとなれるのだ。この地上で守らなければならない法があるように、天国にも法がある。つまり、創造主である父なる神のみことばを守り行わなければならないということだ。光であるみことばの中にとどまるとき、敵である悪魔・サタンに訴えられないで、天国に至る時まで神に守られて祝福の中にとどまれる。

愛する聖徒の皆さん、
<使徒16:31>に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とあるとおり、愛なる神はすべての人が信仰によって救われるように、イエス・キリストを備えておられた。世界の始まる前から奥義として隠しておいて、時期が来ると十字架の愛で全うされた。誰でもイエス・キリストを信じることによって聖霊を受け、救いと復活、永遠のいのちと天国の祝福をいただくようになったのだ。

このような三位一体の神の愛を悟って、真心と全き信仰をもって神のまことの子どもとして永遠の天国の主人公になられるよう、主の御名によって祈る。


 

 

 
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