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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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イエスがなぜ私たちの救い主であるのか(2)

万民ニュース   第 175 号
2970
2017. 05. 28


堂会長イ・ジェロク牧師



「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」 (使徒の働き4:12)




前号で、イスラエルの土地の買い戻しの法(レビ25:23〜27)にかなう救い主の資格条件は、第一に人でなければならないということと、第二に罪を犯したアダムの子孫であってはならないということを調べた。本号でも、救い主の資格条件二つを通して、イエス様だけがなぜ私たちの救い主であるのか、その理由を調べてみよう。


1. イエス様には敵である悪魔に勝てる霊的な力があるからである

戦場で捕虜として連れて行かれた同僚を救い出すには、敵軍に勝つ力がなければならないように、敵である悪魔に属している人を救うには、彼らを支配する霊的な力がなければならない。つまり、霊の世界での力は罪がないところから来るのであって、光が臨めば闇が退くように、罪がなく光の中に完全にとどまっているとき、闇に属する悪い霊どもに勝てるのだ。

罪には原罪と自分で犯した罪があって、原罪とは、罪を犯したアダムから受け継がれた罪の性質のことを言い、自分で犯した罪とは、生きていきながら自ら犯す罪のことである。世の人々は心がいくら悪くても、行いで罪を犯さなければ罪人と言わない。しかし、霊的には、心に罪を抱いていることだけでもすでに罪人である(マタイ5:28;第一ヨハネ3:15)。したがって、行いでも心でも、たった一回でも罪を犯した人は人類を救うことができないのだ。

罪を犯したアダム以後、すべての人は原罪を受け継ぎ、自分でも罪を犯して生きていく。しかし、イエス様は聖霊によって宿られてアダムの子孫ではないので原罪がなく、生まれてから完全にみことばを守って行われたので、自分で犯した罪も全くない(ヘブル7:26;第一ペテロ2:22)。

イエス様だけに敵である悪魔・サタンから人類を救うことのできる霊的な力があって、「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)という律法の呪いにも縛られておられない。罪がないから死の力を打ち砕いて罪人を救い、霊的な権威で天下万物を治めることがおできになるのだ。

このような霊の世界の法則はイエス様だけでなく、イエス様を信じる神の子どもたちにも適用される。神を愛してみことばどおり生きている者には霊的な力があるので、主の御名によって敵である悪魔・サタンを退ければ、聞き従って離れるのだ。

私はこのようなみわざを数えきれないほど体験した。神を信じる前は病気で病院代と薬代がいつも必要だったが、主を受け入れた後、みことばのうちにとどまっているので、家族みなが病院に行かないで健康に暮らしている。

また、私がイエス・キリストの御名によって命じて祈るとき、がんや白血病、エイズなどのいろいろな病気がいやされ、目の見えない人が見えるように、聞こえない人が聞こえるようになり、体の不自由な人も正常になり、一酸化炭素ガスが退いて悪霊が離れるなど、驚くべきみわざがいつも現れて神に栄光を帰している。

人類の歴史上、イエス様のほかにはどこの誰も救い主の条件にかなう人がいないのだ。聖人と呼ばれる釈迦、孔子、ソクラテスも、みな罪を犯したアダムの子孫であって、原罪を持っていた人々である。敵である悪魔に勝てる霊的な力がないので、イエス様だけが救い主の資格を備えられた方だということである。


2. イエス様には命まで与えられる愛があるからである

弟が借金のために罰を受けることになったとき、裕福な兄が借金を返せば罰を受けなくてもすむ。ところが、兄が弟を愛していなければ何の役にも立たない。弟を愛していてこそ、損をしてでも弟の借金を返せるからだ。

土地の買い戻しの法則でも、貧しい人が土地を売ることになったとき、裕福な親類がいるとしても、その人が愛をもって助けようとしてこそ土地の買い戻しが成立する。人類の罪を贖うことも同じである。

イエス様が救い主としての三つの資格条件をみな備えられたとしても、もし愛がないならば、どうなっただろうか。誰でもすべての人類の救い主になるには、罪人に代わって死の刑罰という途方もない犠牲を払わなければならない。しかも最も凶悪な罪人のように、あらゆるあざけりとさげすみを受け、軽んじられながら木の十字架にかけられ、水と血をみな注ぎ出して処刑されなければならない。

世には罪人を処刑する方法がいろいろあるが、霊的に罪人の罪を贖う救い主はただ代わりに死にさえすればよいのではない。霊の世界の法則によって必ず木にかけられなければならず、血を注ぎ出して死ななければならない。<ガラテヤ3:13>に「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」とある。

ここで「律法ののろい」とは、<ローマ6:23>にある「罪から来る報酬は死」という霊の世界の法則を意味している。霊の世界の法則によって罪を犯した人に死という律法の呪いが臨むようになったので、救い主が律法の呪いから人類を解放させる方法も、霊の世界の法則によらなければならない。つまり、呪われた人がかけられるべき木の十字架に救い主が代わりにかけられて死んでこそ、罪を贖えるのである。

十字架にかけられて血を注ぎ出して死ななければならないことも同じである。<レビ17:14>に「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」とあるし、<ヘブル9:22>には「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とある。霊的に血はいのちそのものであるから、救い主の血を注ぎ出してこそ、罪人が罪赦されていのちを得ることができる。

誰でも木にかけられて血を注ぎ出すからといって、人類の罪が赦されるのではない。他の人の罪を贖える救い主の資格を備えた人が十字架にかけられて、血を注ぎ出さなければならない。つまり、罪の性質が全くない、しみも傷もないきよい血でなければならないのだ。だが、罪のない人が何のために他の人に代わってその残酷な十字架刑を受けようとするだろうか。自分の命よりその人を愛するとき、そのような犠牲を喜んで払うことができる。罪人に代わって残酷な十字架刑を受けられる愛の力があってこそ、救い主になることができるのだ。イエス様は十字架の苦しみにあわれながらも、命を惜しまず愛を与えることによって救い主になられたのだ(ローマ5:7〜8)。

愛する聖徒の皆さん、
神の愛は変わったり自分の利益を求めたりする愛ではない。神に従わないで立ち向かう罪人のためにひとり子まで渡してくださった愛であり、自分たちのために来られた救い主を十字架にかけて殺す罪人にも、命まで渡してくださった真実の愛である。

イエス様だけが救い主であるということを明らかに悟って、死の力を打ち砕いてよみがえられたイエス・キリストを受け入れて救われるだけでなく、まことの信仰を持って多くの魂を救いの道に導かれるよう、主の御名によって祈る。


 

 

 
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