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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

聖書の著者である神

万民ニュース   第 170 号
3247
2016. 12. 25


堂会長イ・ジェロク牧師





「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ3:16)




教会に出て来れば、誰でも救いの道が明らかに記されている聖書に接することができる。聖書は神が人間をなぜ造られて、人類の歴史をどう導いていかれるのか、人間耕作の初めと終わりについて、そして救い主イエス様と助け主聖霊、天国と地獄、人の本分などについて詳しく教えている。はたして聖書の著者は誰だろうか?


1. 聖書の著者と記録者の違い

世には多くの本があるが、聖書だけが人に救いと永遠のいのちを与えることができる。聖書は旧約39巻、新約27巻で合計66巻であり、記録された年代はB.C.1,500年からA.D.100年までの約1,600年間である。記録者だけでも30人を超えているが、彼らは著者でなく、代筆者であるだけだ。

たとえば、年老いた母親が息子の代筆で手紙を書かせても、母親の手紙である。このように、聖書も神がみこころにかなう人々をつかさどって、神の霊感によって記させたものだから、聖書の著者は神なのである。

<第二ペテロ1:21>に「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とある。<イザヤ34:16>には「【主】の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、【主】の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」とある。

全知全能の神が神の霊感によって記すようになさったので、いくら聖書の記録者が多くても、ひとりの文のように全く矛盾がなく、一貫性があるように構成されている。


2. 神の霊感によって記された聖書

聖書はすべて神の霊感によるものなので、解釈する時も必ず聖霊に動かされて解釈しなければならない。もし人の思いや知識で解釈するならば、神のみこころと違うように解釈して、かえって滅びの道に行くことがある(第二ペテロ3:16)。

しかし、聖霊に動かされて解釈すれば、聖書に記されているみことばの節が互いに連れ合いになっていることが悟れる(イザヤ34:16)。玉が糸に通されて美しい首飾りになるように、聖書の節が互いに連れ合いになって補完され、霊的な意味を完全に説明できるからである。

たとえば、<使徒2:21>に「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」とある。ところが、このみことばだけでは救いについての神のみこころを完全に説明できない。<マタイ7:21>に「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、・・・」とあるとおり、主の御名を呼ぶだけでは救われる条件を完全に満せないからである。

したがって、<ローマ10:10>に「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあるとおり、心に信じて義と認められた人でこそ、口で救い主を告白して救われることができるのだ。では、「心に信じる」とはどういうことだろうか?

<ヤコブ2:14>を読めば「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」とある。心に信じて義と認められれば、何としてでも罪を捨ててみことばどおり生きようとする行いが必ず伴う。

また、<ローマ3:28>に「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」とある。だから、熱心に真理を行うとしても、信仰によって行うのではない時は義と認められないのである。したがって、心に信じるということは、聖なる行いが出て来る聖なる心に変えられること、すなわち、心の割礼をすることを意味している。

このようにみことばの連れ合いを知らなければ「イエス様を救い主と認めて心に信じさえすれば、罪の中で生きていても救われる」と思って、真理を取り違えて罪を犯していて滅びに至ることがある。神のみこころを正しく知るには、そのみことばの連れ合いを知り、聖霊に動かされて解釈しなければならない。


3. 永遠の真理である神のことば

聖書は神のことばであり、その中に記されているみことばは真実である。これは歴史的にも証明できる。旧約に記されているイスラエルの歴史と周辺民族の事件と登場人物、場所や慣習などを調べれば、一つ一つが事実である。

また、聖書には多くの預言が出て来るが、全部そのまま成就してきた。一例として、<ルカ19:43〜44>に「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、・・・一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。・・・」とある。これはエルサレムの滅亡についての預言で、この時から40年余り経った西暦70年にそのまま成就したのが見られる。

この他にも、神は旧約にイエス様のお生まれと働き、苦しみ、復活などを預言されたが、新約で完全に成就した。まずイエス様のお生まれについて、神は救い主がイスラエルの民のところに来られることを告げてくださった。神が蛇を呪われたとき、「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」と仰せられた(創世記3:15)。救い主が女の子孫として来られて、死の力を打ち破ることを預言したのだ。ここで「女」とはイスラエルを意味するが、実際にイエス様はイスラエルのユダ部族に属するヨセフの子としてこの地上に来られた(ルカ1:26〜32)。

<イザヤ7:14>に「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」とあり、<ミカ5:2>には「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。・・・」とあるが、預言どおりイエス様はおとめマリヤの胎に聖霊によって宿り、ベツレヘムのある宿屋の家畜小屋でお生まれになった。

イエス様がエルサレムに入城された時も、<ゼカリヤ9:9>のみことばどおり、ろばに乗って入城された。また、<詩篇41:9>のみことばどおり、イスカリオテ・ユダがイエス様を裏切って売った。この他にもイザヤ書、詩篇、ゼカリヤ書などにイエス様の苦しみと葬られたこと、復活と昇天に至るまで詳しく預言されているとおりに新約で成就した。今はイエス・キリストの空中降臨と携挙、七年大患難、千年王国、白い御座の大審判などだけが残っている。

愛する聖徒の皆さん、
聖書66巻が神のことばであることを心に確かに信じ、その中に記されている戒めを努めて行われるように。そして、生ける神がいつも御手を差し伸べてくださって祝福され、永遠に愛を分かち合うことのできるまことの子どもになられるように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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