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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

柔和の実

万民ニュース   第 164 号
3297
2016. 06. 26


堂会長イ・ジェロク牧師





「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22〜23)





一般に人は性格が優しくてやわらかいと「柔和だ」と言う。しかし、神が認められる霊的な柔和は、単にやわらかくて優しいことだけを意味するのではない。それでは、御霊の九つの実の一つである「柔和の実」とは何だろうか?


1. 皆を理解して抱ける心

霊的な柔和とは、善の知恵があって正しいか正しくないかを見分けることができるが、悪い感情がないので、皆を理解して抱けるやわらかい心のことである。つまり、心優しくやわらかい性分に徳が兼ね備えられているのが霊的な柔和である。徳があると、いつもやわらかいだけでなく、正すべき時は威厳を持って正すのだ。

また、柔和な人の心は綿毛のようにやわらかい。ふんわりした綿に石を投げたり針で刺しても音もなく包んでしまうように、相手が自分にどのように対しても、柔和な人の心には引っかかりがない。つまり、相手のせいで憤らないし、わかってもらえなくてむなしくならなくて、相手の心の平安を乱すこともない。他の人をさばいたり罪に定めたりしないで、理解して包んであげる。

このような人には安らぎを感じるので、多くの人が来て宿り、休みを得る。まるで堂々とした木に枝がよく伸びて鳥がその枝に宿り、巣をつくって休みを得るようなものである。

神の御前に誰よりもこのような心を認められた代表的な人がモーセである。<民数記12:3>に「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」とある。モーセがエジプトから連れ出したイスラエルの民は、おとなだけでも60万人である。女と子ども、老人を含めれば、その数がゆうに200万人を超えるだろう。このように多くの人をカナンの地に導く過程で、大きい神の力を見せても、民は何度もモーセにつぶやいて立ち向かった。こんな民を導いて四十年間も荒野の生活をしたということは、モーセがどれほど心優しかったのを物語っている。

<マタイ5:5>に「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」とある。ここで「地を受け継ぐ」とは、この世で土地をもらうという意味ではなく、心に霊的な柔和の実が結ばれたほど、天国で広い地を受け継ぐという意味である。

この世でいくら広い土地を所有したとしても、それを天国に持って行くことはできない。しかし、神が柔和な人に下さる天国の地はとこしえになくならない。美しい天国で主と愛する人々とともに永遠に幸せに生きていくのだ。


2. 良い地にたとえられる霊的な柔和

霊的に柔和な心は良い地にたとえられる。人の心に悪が多ければ、道ばたのように硬くて真理を受け入れられない。あるいは、真理を聞いて恵みを受けても、すぐ疑って恵みを台無しにしてしまったり、世のものを得ようと恵みを捨ててしまう。

しかし、このような心でも熱心に変えさせていくなら、良い地のような心になれる。いくら荒れ地であっても、農夫が熱心に耕していけば、結局肥沃な地に変わる。このように地の性質が変わりうるように、人の心も神の力によってはいくらでも変えられるのだ。荒れた畑のように硬くなった心でも、聖霊に助けられるなら、十分に耕して良い地になれるのである。いくら悪が多く植えつけられて良くない心であっても、悪を捨てていけば、結局美しい心に変えられる。荒れた心、すなわち、相手と引っかかって敵になって、ねたみ、そねみ、争いがある心も、変えさせていけば柔和の実が結ばれるのだ。

ところで、聖霊を受けたからといって、自然に心が変えられるのではない。必ず自分の努力が伴わなければならないのである。絶えず火のように祈って、すべてのことに何としてでも真理によって考えて、真理によって話し、真理によって行おうと努めなければならない。数週間、数か月間だけやってあきらめるのではなく、最後まで固い意思をもって心を守らなければならない。このような意志と努力があるとき、神も恵みを注いで強くしてくださり、聖霊も助けてくださるのである。

このように心を良い地に耕していけば、自然に御霊の実も結ばれていく。特に柔和の実は心の地を耕すこととさらに密接な関連がある。憤り、憎しみ、そねみ、欲、争い、自分を目立たせたい心などを捨てなければ、柔和になることも、多くの人がその心に宿ることもできない。それで、柔和は他の御霊の実よりもさらに聖めと直接的な関係があるのだ。

霊的な柔和を心に耕していると、蒔いたとおり刈り取る良い地のように、求めるものは何でもすみやかに答えられるし、聖霊の声も明らかに聞いて、すべてのことに栄えるようになる。


3. 徳を兼ね備えた霊的な柔和の実

まず、徳とは、正しくて威厳があって、節度ある行いとして現れる。分別がなく優しいだけで優柔不断な人は他の人を抱くことができない。かえって無視されて利用されやすいのだ。しかし、徳と柔和を兼ね備えている人は内面に公明正大な基準を持っているので、正しいか正しくないかを正確に見分けて行える。

イエス様も、宮きよめをされた時や、パリサイ人と律法学者たちの偽善を叱られた時は、断固として強い姿を見せられた。いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない優しい心だが、叱らなければならない時は厳しく叱られたのである。そんな断固としたところと義が内面にある人は、語気を強めたり厳しくしなくても、他の人がその人に軽々しく対せない。

このように外面に現れる姿は、主の教育によって完全にされたからだの行いとも関連がある。徳のある人はひと言にも重みがあり、無益な言葉を口にしない。服装も時と場所に合わせて整え、表情も無愛想だったり冷たかったりするのではなくやわらかい。徳を兼ね備えた柔和の実が結ばれている人はすべてを正しく行うが、同時に相手の心に配慮して気を楽にする心遣いを持っているのである。

次に、徳は心を広く遣う憐れみと親切の行いとして現れる。物質的に困っている人に施しをするだけでなく、霊的に悩んでいる人、弱い人を顧みて、慰めて恵みを与える。たとえば、迫害されてつらい信仰生活をしている聖徒を見ると、気の毒に思うだけでなく、暖かく慰めと励ましの言葉をかけ、事情を調べて施しをして、力づけるのである。このように柔和な心が徳のある姿として現れてこそ、相手にとって恵みといのちになれるのだ。

愛する聖徒の皆さん、
何か自分の願いどおりにならないと「生まれつきの性分だから仕方ない」とひょっとしてでも言い訳をしているのではないだろうか? 創造主なる神を信じる人ならば、こんなことを言ってはならない。イエス・キリストを信じて聖霊を賜物として受け、みことばと祈りによって変えられるなら、聖霊の働きによって性格や心もいくらでも変えることができる。いくら憤りが多くて自分を目立たせようとする性分や自己中心的で義の強い性分であっても、悪を捨てて心を耕すなら、柔和で徳のある性分に変えられる。内気で小心な性分も、いくらでも大胆でのびのびした性分に変えられて、多くの人を抱けるのだ。

まめに心の地を耕して柔和の実を結び、出エジプトの指導者モーセのように多くの人を愛して仕えるように、主の御名によって祝福して祈る。


 

 

 
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