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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

善意の実

万民ニュース   第 162 号
3982
2016. 04. 24


堂会長イ・ジェロク牧師





「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22〜23)





美しい御霊の実は心にだけ結ばれているのではなく、必ず良い行いとして現れる。その中に善意の実が心に完全に結ばれるとキリストの香りが放たれるので、多くの人がイエス・キリストを感じて神をあがめるようになる。それでは、善意の実とは具体的に何だろうか?


1. 真理を基準として行おうとする心

世の人々は良心に基づいて「これは良い」あるいは「悪い」と見分けて評価する。自ら良心に引っかかることがないなら、自分なりに良い心の正しい人だと自負するのだ。だが、良心は人によって違う。良心が作られる過程がそれぞれ違うからだ。

良心とは「本性に土台に作られた善悪を判断する基準」である。人の本性はどんな気を受け継いで生まれるのか、また、どんな環境で育つのかなどによって変わってくる。良い両親の気を受け継いで生まれた子は比較的本性が良い。また、良い環境で良いものをたくさん見て聞いて育った人は、良心が正しく作られやすい。反対に、悪い親の気を受け継いで、生まれてから悪いものによく接すれば、本性と良心が悪くなりがちである。

たとえば「正直」が大切だと教わった子は、ささいな嘘をついても良心の呵責を感じるが、いつも嘘をついて育った子は、習慣的に嘘をつきながらも平気なのだ。このように良心は人によって、地域と時代によってそれぞれ違う。自分では良心的だと思っている人も、結局は「自分の目に良いこと」を追い求める。

ところで、主にあっての聖徒は善悪と是非をわきまえる基準がいつも同じである。きのうもきょうも永遠に変わらない真理、すなわち、神のことばが基準だからだ。このような「真理」を基準として行おうとする心がまさに「善意」である。


2. 善を行わずにはいられない心

「善意」とは辞書では「よい心。他人のためによかれと思う心。」という意味だが、霊的には、御霊にあって善を追い求める心、すなわち、真理にあって善を追って行う心である。良い人は、良い倉から良い物を取り出すので、善を追い求める人からは自然に善がにじみ出る。どこへ行っても誰に会っても、良い言葉と良い行いで相手の徳を高めて愛を施す。香水をつけた人から良い香りがするように、善意の心を持つ人からもキリストの香りがする。

ところが、善を追い求める心ばかり切実だからといって、善意の実を結んだとは言えない。見て聞いて学んだら、それを必ず自分の心に耕して、実践しなければならない。

ルカの福音書1章には、良きサマリヤ人がどう善意を行ったのか記されている。ある人が、強盗に襲われて半殺しになってしまった。たまたま、祭司がひとり、彼を見たが、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。祭司やレビ人は律法をよく知っていて、神に仕えると言っている人である。ところが、彼らはいざというとみこころを行うべき瞬間に行いを見せなかった。

しかし、サマリヤ人は強盗に襲われた人の傷にほうたいをし、宿屋に連れて行き、介抱してやった後、宿屋の主人に彼を介抱してあげてくださいとお願いする。もっと費用がかかったら、自分が帰りに払うと約束までして行った。善意の心があったので、死にかけている人に顔を背けることができなかったのだ。いくら物質や時間で損をするとしても、とても見捨てて行けなかったのである。そのまま通り過ぎたなら「けがをした人はどうなっただろうか」と心にいつまでも残っただろう。このように、善意とは善を選ばずにはいられない心である。


3. イエス様の善意の心

<マタイ12:19>に「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。」とある。よく「あの人は本当に優しい、いい人だ」と言われている人々を見れば、誰とも引っかかったり、ぶつかったりすることがない。「大路でその声を聞く者もない。」とあるように「そこにいることさえ知らなかった」と言われるほど、静かで争うこともないのである。相手のしみや過ちを明らかにしないし、自分を目立たせて高められようとすることもなく、筋に合わないことにあうからといって不平を言わない。

その次の20節には「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、」とある。ふつう木や草花を育てるとき、いたんだ葉や枝があれば、きれいに切り落とすものである。また、燈心がくすぶる時は、その光も明るくなく、すすもひどくなる。だから、人々は最初から燈心を消してしまう。しかし、善意の心があれば、いたんだ葦も折ることがなく、くすぶる燈心も消すことがないというのだ。万が一でも回復の可能性があれば、どうしてもそのいのちを断ってしまえないので、何としてでもいのちの道を開いてあげようとする。

ここで「いたんだ葦」とは、霊的に「世の罪と悪でぎっしりになっている人」のことである。「くすぶる燈心」とは「心が悪でひどく染まっていて、その魂の明かりが消えつつある人」のことだ。このような人は主を受け入れるのが難しい。神を信じると言っても、その行いを見れば世の人と変わらないし、むしろ聖霊に逆らって神に立ち向かいやすいのだ。

イエス様の時も、驚くべき力を見ながらも、相変わらずイエス様を信じないで悪を行って、聖霊の働きに立ち向かう人が多かった。しかし、イエス様はこのような人も最後まで信じて期待し、救われる機会を開いてくださったのだ。

善意の実が結ばれている人は悪を行う人々を心に抱く。あえて正しい正しくないを問い詰めて、相手の過ちを明らかにしようとしたり、相手を負かしてやろうとしない。真実の心で良くしてあげて、彼らの心を溶かし、かえって感動を与える。

もちろん、相手があまりにも悪くて、自分のほうでいくら良くしてあげても、結局は死の道へと行くこともある。このような人でも、自分のほうから「ここまでは我慢しよう」と限界を定めて、その限度を超えれば顔を背けるのではない。最後まであきらめないで、いのちの道へと導こうとするのが善意の心である。何としてでも救われるように、続けて機会を与えるのだ。

それでは、真理にあって善を追い求めて行う「善意」は、他の項目とどう区別できるだろうか?たとえば、サマリヤ人が「強盗に襲われた人を助けたのは施しと憐れみの心ではないのか」と疑問を持つこともある。

もちろん、施しと憐れみも、結局善に含まれる徳である。しかし「善意」でもっと強調される側面は、善を行おうとする心である。相手の困難をかわいそうに思って助ける「憐れみ」に焦点を置くのではなく、当然憐れむべき状況でそのまま見過ごせない善の心が善意なのだ。

もう一つたとえを挙げると、忠実に仕える時も、善意の実が結ばれているなら、どれか一つの分野だけでなく、全家を通じて忠実であるようになる。もし自分が果たすべき分野のうち一つでもおろそかにすれば、それによって苦しむ人がいるようになり、神の国が広げられないこともあるので、全家を通じて忠実であろうとするのだ。その他の項目も、このように適用すれば理解できるだろう。

愛する聖徒の皆さん、
善意の実を結べば主に似せられることができる。小さい子につまずきを与えたり、他人に迷惑をかけたりしないし、外面でも善と謙遜の香を放つようになる。主の教育を身につけて、すべてにおいて尊敬され、歩き方や身のこなし、話し方の習慣などが完全になる。善意の実を完全に結んで神に栄光を帰されるよう、主の御名によって祝福して祈る。


 

 

 
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