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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

愛の実

万民ニュース   第 157 号
6892
2015. 11. 22


堂会長イ・ジェロク牧師





「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22〜23)


「御霊の九つの実」はマタイの福音書5章の「八つの幸い」、コリント人への手紙第一13章の「愛の章」のみことばとともに、ひとりひとりの信仰をチェックする尺度になるものである。はたして御霊の実とは何であり、その中の愛の実を結ぶにはどうすればよいのか調べてみよう。


1. 御霊の実とは?

実とは、種を蒔くと芽が出て育ち、花を咲かせて結ぶ結果物である。このように、私たちの心の中に聖霊が臨まれることで結ばれる実がまさに「御霊の実」である。

神は主を受け入れた子どもたちの心に聖霊を賜物として下さるが、聖霊を受ければ死んでいた霊が生き返る。そして、聖霊は罪と義とさばきについて悟らせて、罪と不法を捨てて義の中で生きていくように助けてくださる。また、天国に行ける信仰と希望を持って信仰生活をするように導かれる。

このような聖霊の導きに聞き従うことによって結ばれる実がまさに御霊の実である。ところで、聖霊を受けたからといって、誰でも御霊の実を結ぶのではない。聖霊の導きに聞き従う時でこそ、実を結ぶことができる。たとえるなら、聖霊は一つの発電機のようなものである。発電機が回れば電気が発生し、電球に明かりがついて闇が退くように、聖霊が働くと肉に属する闇が退いて、御霊の実を結ぶことができる。

この時、重要なのは、電球に明かりが入るようにするには、発電機をつなぐだけでなく、稼動させなければならないということだ。つまり、いつも目を覚まして火のように祈って、聖霊の働きに従って真理を行わなければならないのだ。これが御霊によって歩むことであり、このように熱心に行うとき、御霊に満たされて心が真理に変えられ、御霊の実を結ぶことができる。

だが、御霊によって歩もうとするとき、これを妨げる肉の願うことがある。肉の願うこととは、御霊に逆らうこと、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などのようなものを求めようとし、さまざまな罪と不正と不法を行おうとすることである。このような肉の願うことに従うと、御霊がうめかれるので、心が悩むようになる。

<ガラテヤ5:16〜17>に「・・・・・・御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」とある。御霊に逆らう肉の願うことに従うなら、その実は罪と不法である肉の行いとして現れて、結局は救いと遠ざかるようになる(ガラテヤ5:19〜21)。御霊によって歩む時でこそ御霊の実を結んで、永遠のいのちに至るようになるのだ(ガラテヤ6:8)。


2. 一番目の御霊の実である愛

神を信じない人々も「愛している」とよく言うが、世の人の愛は朽ちて変わってしまう肉の愛である。しかし、神に属する愛は真実で永遠に変わらない霊の愛なのだ。

神が最初の人アダムを創造されたとき、彼に与えられた愛は霊の愛だった。ところが、アダムは神のみことばに聞き従わなかったので、霊が死んで、罪によって肉の人へと堕落してしまった。この時から人々の愛も肉の愛に変わり始めた。それで今日、霊の愛を見つけるのが難しい世になってしまった。「愛している」と告白するが、時間が過ぎれば変わってしまい、自分の利益を求めて、自分の願うとおり情欲を追い求める肉の愛だけがあふれている。

夫婦の間でも、初めは互いに「あなたがいなければ生きられない」と言うが、いざ結婚すれば変わる。前は相手に合わせようとしたが、今は自分の願うとおりに従ってくれないと、相手をつらくさせる。離婚も簡単にして、あまり経たないうちに他の人と結婚もする。そうしながら相手を「愛している」と告白するのだ。

親子の愛も同じである。もちろん子のために自分のいのちまで与える親もたびたび目にするが、世が悪くなるほど、子のためにさえ犠牲的に愛することが減っている。互いに利益に合わなければ敵になることが多い。

兄弟や友だちの間の愛も同じである。環境と条件、自分の思いと合う時だけ続く愛であり、条件が変わればいつでも変わってしまう。結局、代価を期待して与えるものであり、このすべては肉の愛なのだ。

それなら、霊の愛はどんなものだろうか?愛の章と呼ばれる第一コリント13章を読むと、霊の愛、すなわち、神が望んでおられる真実の愛が何か具体的に説明されている。

これより一次元高い霊の愛がまさに御霊の九つの実の一つ、愛の実である。自分のいのちまで与えられる犠牲が込められている霊の愛なのだ。つまり、神のために、神の国と義のために、兄弟のために、それどころか自分を憎む敵のためにも「いのちを与えることができる最高の愛」である。


3. 愛の実を結ぶには

神がまず私たちに最高の愛を与えられて、主も私たちが罪人だった時にいのちを与えるまで愛してくさったという事実を、頭だけではなく心の奥深く悟らなければならない。神を真実に愛してこそ、どんな状況でも神への信頼に変わりがなく、最後までいのちを尽くして忠実に仕えることができる。

人に対する時も同じだ。神への愛が真実になったなら、人に対する時も真実の愛をするようになる(第一ヨハネ3:16)。自分の利益を求める心が全くないので、自分にあるすべてを渡しながらも、何かの代価を期待しない。このように、真実の愛は肉を捨てて聖められるほど、実を結ぶことができる。

聖書を読むと、昔の信仰の人々がどんな愛を実践したのか記してある。モーセは自分の名がいのちの書から消されるとしても、イスラエル民族を滅びから救い出すことを願った(出エジプト32:32)。使徒パウロは「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言った(ローマ9:3)。ステパノ執事は石打ちにされて死にかけていながらも「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈った(使徒7:60)。

私たちにはこのような愛がどれほど結ばれているだろうか?神と主、信仰の兄弟姉妹をどれほど愛しているだろうか?前に私が「もし千人の魂を救うことさえできるなら、代わりに地獄に行くとしてもそうする」と告白したことがある。私は地獄についてあまりにもよく知っているが、地獄に落ちる魂を救うことさえできるなら、そうでもしたいということである。

イエス様が私のために死んでくださったように、魂のためになら私のいのちも与えることができる。義務や言葉だけでなく、本当に魂を愛しているので、彼らを救おうと一日一日全身全霊を使い果たすまで、私のすべてをささげている。「どうすればもっと多くの所に福音を伝えて、もっと大いなる神の力を現して、多くの人が主を信じるようにできようか。」毎日こう考えるばかりである。

神の子どもとされた私たちには、ひとり子まで下さった神の愛がどれほど心に刻まれているだろうか?その愛が私たちの中に満ちているなら、私たちも神を愛するようになり、魂を心から愛することができる。

愛する聖徒の皆さん、
イエス・キリストを受け入れて聖霊を受けた神の子どもとされたなら、どうすべきだろうか?自分の利益を求めたり、もらおうとする肉の愛を捨てて、真実で自分を犠牲にできる霊の愛を心に耕すようお願いする。それで、主のお心に似せられて全き愛を実現し、最も美しい天国である新しいエルサレムに入って永遠に愛を分かち合えるよう、主の御名によって祈る。


 

 

 
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