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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

「偽りの証言をしてはならない」

万民ニュース   第 152 号
4174
2015. 06. 28


「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」 (出エジプト20:16)



堂会長イ・ジェロク牧師





多くの人が「私は偽りは言わない」と自負していますが、はたしてそうでしょうか?暗い所では汚れが見えなくても、とても明るい光に照らされると、細かいホコリやシミまで目につきます。このように、真実そのものであられる神がご覧になると、大小の偽りを言うことがどれほど多いでしょう。では、偽りの証言にはどんなものがあるのか調べてみましょう。


1. しなかったのにしたと言ったり、したのにしなかったと言う場合

裁判では証人の話が直接判決に影響を与えます。偽りの証言で罪のない人が大きい損害をこうむることもあり、それどころか生き死にが変わってくることもあります。このように偽りの証言がどれほど悪いのか明確になる、代表的なものが裁判です。

聖書には、証言する人と判決を下す人、どちらも慎重でなければならないと書いてあります。ひとりの言うことだけを聞いて人を罪に定めず、何人かの話を聞いてみて情況を正しく見分けなければならないこと、偽りの証言をした人も刑罰を受けさせるようにと書いてあります(申命記19:15-20)。

したがって、神の子どもたちは暮らしの中でのささいな偽りも捨てなければなりません。小さい偽りはもちろん、事実を言わなければならないのに言わないことも、偽りになることもあります。

たとえば、自分の過ちによって他の人が濡れ衣を着せられるのを見ても知らないふりをしたり、実際の金額より多くのおつりをもらっても何も言わないなら、正直な人と言えません。神は私たちが偽りを言わないだけでなく、心が正直で、言葉と行いがまことで真実であることを望んでおられます。

ところで、相手のために「悪意のない偽り」を言う場合があります。たとえば、食事は済ませたかという質問に対して、相手が気を遣わないように配慮するつもりで、食べなかったのに「済ませました」と答える場合です。このような時は「食べたくありません」と率直に言うのが正しいです。

聖書にもこのような場合があります。ヨナタンがダビデを野原に隠しておいたのに、ダビデを殺そうとするサウル王に事実を言わないで、ダビデが兄弟たちに会いに行ったと言います。もちろんこれは完全な行いではありませんが、ヨナタンにとってはダビデを生かそうとした最善の方法でした。このように自分の利益を求めず、良い意図で言う時は、神は偽りを言ったと罪に定めはなさいません。ですが、全き善の次元に至れば、悪意のない偽りを言わなくても、その状況を避けるように神が働いてくださいます。人の心をご覧になる神を欺くことはできないので、正直な心になり、天の知恵をいただき、徳を高めて恵みを与える話をしなければなりません。


2. 自分の考えと感じによって話をつけ加えたり減らしたりする場合

他の人の話をつけ加えたり減らしたりして、とんでもないように伝えることがあります。それも良いように伝えるなら幸いですが、悪いように伝えて誤解を招くので問題です。字一つまでそのまま伝えたとしても、イントネーションや音の長短によって、その意味が変わってくることもあります。

たとえば、同じ「どうしたの」と言うのも、心配しそうに言うのと、怒って問い詰めるように言うのとではイントネーションが違います。もちろん録音機のように相手の話を同じように伝えるのは難しいですが、最大限、話をした人の意図を正確に伝えようと努力しなければなりません。たとえ正確に伝えるとしても、恵みを与えて徳を高めず、真理でない話なら、伝えてはいけません。良い意図で伝えたとしても、聞く人のほうでは心が傷ついてしまうなら、人々の間に争いを引き起こす結果になるからです。

<マタイ12:36-37>に「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」とあります。したがって、いつも恵みを与えて徳を高める言葉を口にして、正しいとされますように。


3. 自分の思いに合わせて相手の心を量り、さばいて罪に定める場合

人は他人の表情と行動を見たり話を聞くとき、自分の感じと考えに合わせて相手の心や意図をさばくことが多いです。たとえば、視力が悪かったり何かを考えていたりして、相手を見ないで通り過ぎたのに「知らんぷりしてる。わだかまりがあるのか」と思います。

いくら勘のいい人でも、愛し合っていて親しい間でも、相手の心を量ることは難しいです。ところが、自分の基準に合わせて相手を誤解してさばくからわだかまりを持ったり、非難したりすることが、どんなに多いでしょうか。相手の心と違うように、自分の判断に合わせて事実でない話を伝えるのは、結局偽りの証言なのです。これに同調してさばくなら、これもやはり偽りの証言に加わる愚かな行動です。

肉の人は自分がある状況で悪を行ったら、他の人も同じ状況で自分と同じ悪を行うだろうと思います。偽る心がある人は相手が偽っていると疑って、人を無視する人は相手が自分を無視していると思います。したがって、自分の思いと基準で人をさばいたり罪に定めたりしてはならないのです。

相手の過ちを口にしてこれをさばく人は、自分が相手よりもっと大きい悪を行っていることを悟らなければなりません(マタイ7:1-5)。自分の悪を捨てて聖められてこそ、他の人の過ちも見分けられるのです。しかし、心の悪をみな脱ぎ捨ててしまえば、相手の過ちを見ようともせず、むしろ良い面を見ようとするし、相手に過ちがあっても覆ってあげようとします。

<ヤコブ4:11>に「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。」とあります。兄弟をさばいて悪口を言うのは、すなわち、裁判長である神のようになろうとする大きい悪だということです。

ここでもう一つ、心に留めるべきことがあります。自分の思いを働かせて、神のことばをさばくことがあっては決してならないということです。人の限界では全く不可能なことであっても、神は十分におできになるので、神のことばについて人の思いを働かせて「間違っている」とさばくことが決してあってはなりません。

人は悪意がなくてもささいな偽りを時々言います。たとえば、事実と違って誇張したり縮小したりする場合です。他の人がたくさん食べたのを見て「全部食べてしまった」とか、少し残っている物を見て「一つも残っていない」と言うのです。あるいは二、三人の意見を「みんな」と伝える人もいます。

また、正確に知らない数字を事実のように報告をする場合です。これは故意でなくても、結局偽りになります。時には、他人の話を伝えるとき、自分の思いに合わせてとんでもないように伝える人もいます。たとえば「食卓がみすぼらしい」と言ったのを「肉がない」と言ったと伝えるのです。もちろんこれはささいなことかもしれないし、偽りでもありませんが、言葉をつけ加えたり減らしたりすることなのです。

心が真理で満たされた人は知っていることだけを話します。自分の思いと感じを加えて、事実のように言わないのです。ですから、ささいに見えることも、自分の言葉に真実性が欠けているなら、これはすなわち偽りの属性があることを悟らなければなりません。偽りの根を全部引き抜いていない人は、緊迫した状況にあえば、人に害を与える偽りを言うこともあります。ですから、ささいなことも発見したら捨てて、完全に変えられますように。

愛する聖徒の皆さん、
光である神の子どもらしく、ささいなことでも偽りのないきよい心を耕しますように。そして、神が皆さんの道を明るく照らして盾になってくださり、日々の暮らしの中で良いものを惜しまず注がれますよう、主の御名によって祝福して祈ります(詩篇84:11)。


 

 

 
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