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「殺してはならない」

万民ニュース   第 149 号
4239
2015. 03. 22


「殺してはならない」 (出エジプト記20:13)



堂会長イ・ジェロク牧師





神が愛する子どもたちに「殺してはならない」という戒めを下さったのは、単に人のいのちを害してはならないという意味だけではありません。これは「霊的な殺人」も禁じているみことばです。

もしこのような霊的な意味を知らないなら「私は人を殺したことがないから戒めは守っている」と自信を持って言えるでしょうが、はたしてそうでしょうか?決してそうではありません。

それでは「殺してはならない」というみことばについて三つに分けて調べてみましょう。


1.人のいのちを奪う場合

他人のいのちを奪うことが非常に重い犯罪だということは誰でも認めるでしょう。ところで、もう一つ覚えておくべきことは自殺に関することです。

すべての人のいのちへの主権は神に属しているので、自分のいのちだからといって、自分の思いのままに殺せるのではありません。したがって、自殺は殺人の罪に当たるし、堕胎の場合も同じです。胎児であっても親が勝手に殺せるものではありません。殺人そのものも恐ろしい罪なのに、しかも親が子どものいのちを奪うということは決してありえないことだと悟らなければなりません。


2.兄弟を憎む場合

<第一ヨハネ3:15>に「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」とあります。ただ心で憎んでいるだけなのに人殺しと言われるのは、その罪と悪が根本的に憎しみという根から出てくるからです。憎しみがだんだん発展すれば、行いとしても相手に悪を行って、結局人殺しに至るのが見られます。

創世記4章に記されている人類初の殺人の罪を犯したカインも、その罪の根は憎しみでした。カインは神が自分のいけにえには目を留められず、弟のアベルのいけにえには目を留められると、アベルに対する憎しみが極まって、結局殺しまでしたのです。

兄弟を憎む心があれば、悪口を言って争ったり、ねたんだりそんだり、さばいて罪に定めて相手の過ちを伝えることも見られます。偽りを言ってだまし、害を与えたり、かたき同士になって付き合うこともない場合もあります。このように憎しみのゆえ悪を行うすべてが結局は霊的に人殺しだということです(マタイ5:21-22)。

旧約時代は聖霊が来られなかったので、自分で心に割礼をして聖められることがやさしくありませんでした。しかし、新約時代は私たちの心に聖霊が来られ、心にある罪の性質まで捨てられるように強くしてくださいます。ですから、行いで人を殺さないだけでなく、憎しみという罪の根まで心から捨てることができるのです。このように心から罪と悪を脱ぎ捨てて愛で完全に満たしていくと、神の愛と祝福が臨むようになります。


3.人につまずきを与える場合

つまずくとは「爪先がものにひっかかって体がよろける。けつまずく。」という意味ですが、信仰にあって誰かにつまずきを与えるとは、相手が真理から外れるようにして、その人に害を与えることです。

たとえば「主日、家に大事な用事がありますが、礼拝に行かなくてもかまわないでしょうか」という質問を受けて、かしらの働き人が「そんなに大事な用事なら、主日を汚してもどうしようもありません」と答えたとすれば、これは相手を死の道に行かせるようなことなので、霊的な殺人と言えます。あるいは「個人的に緊急にお金が必要ですが、教会の財政をしばらく使って返してもかまわないでしょうか」という質問に「返しておけるならかまいません」と答えるなら、これもまた神のみこころを正反対に教えることなので、相手につまずきを与えることです。

このように真理に逆らうことを教えて、いのちの道から外れるようにするのが霊的な殺人に当たります。時には間違った信仰上のアドバイスをして、問題がもつれて訓練を受けるようにすることがあります。決してこういうことがあってはいけないし、正しいアドバイスをする自信がないなら「後で答えさせていただきます」と言って、祈った後に正確に御霊に示されて、あるいは答えがわかるような方に質問をしてでも、正確な答えをしなければなりません。

また悪い言葉で他人の過ちをさばいて罪に定め、サタンの会衆を作って陰口をたたいたり、争いを引き起こしたりすることなども霊的な殺人に当たります。これによって兄弟が他の人を憎むようになり、悪を行うようにするからです。特に主のしもべや教会について非難する言葉を伝えて多くの人につまずきを与えたなら、神の御前で必ず覚えられるようになります。

ところで、自分の悪のゆえ自らつまずくこともあります。イエス様は真理だけ行われましたが、悪いユダヤ人たちやイスカリオテ・ユダのような人は自分の悪のゆえつまずきました。ひょっとして相手の過ちを見て「あの人のせいで教会に行かない」と言うなら、これは相手がつまずきを与えたのではなく、自分の悪によるものです。

信頼できそうと思っていた人が真理に逆らうことを行ったからといって、神を離れる人もいます。たとえば、相手を信じて保証人になってあげたのに、それによって困るようになったということです。これは自分の信仰がまことの信仰でなかったことを証ししているのです。しかも聖書には「保証人となってはならない」とあるし、教会でも信仰の兄弟の間では金銭の取り引きをしてはならないと教えたのに、真理で見分けられず、みことばに従わなかったから被害をこうむったことなので、むしろ悔い改めなければならないのです。

また、人を見てさばいて罪に定めてつまずいたなら、その人は自分の悪のゆえ他の人につまずきを与える可能性があります。本当に良い心であり、まことの信仰があるなら、仮に相手の欠けている姿を見ても、むしろ憐れんで祈るだけです。

また、みことばに引っかかってつまずく人もいます。たとえば、十分の一献金をしてこそ祝福されるというみことばを伝えると、教会で物質を強調すると言って、気に障ってつまずくのです。また、神の力を語ると、肉の思いのため信じられないので、自ら心に引っかかってつまずいたりもします。自分に真理を受け入れようとする良い心があるなら、伝えられるみことばのゆえつまずくことはないでしょうが(マタイ11:6)、自分が闇の中にいるので、光である神のみことばに引っかかるのです(ヨハネ11:10)。

このように人がつまずくこと自体が信仰が弱くて心に悪があるからですが、兄弟につまずきを与える人のほうにも責任があります。たとえば、真理のみことばも相手の信仰の量りに合わせて賢く伝えなければなりません。主を受け入れて聖霊を受けたばかりの人に「酒、タバコをやめなさい」と言ったり「主日には絶対に店を開いてはいけません」と教えたりするなら、まるで乳飲み子に硬い食物を食べさせるようなものです。無理に従っても心に重荷となったり、教会に来るのをあきらめてしまうこともあります。

本当に主を愛して魂を愛するなら、ひと言口にしても身を謹むことで相手につまずきを与えず、むしろ恵みと徳を高めるようになります。相手にとって重荷となって心が刺されるのではなく、希望を与えて行える力になるように教えなければなりません。

愛する聖徒の皆さん、
相手を愛するなら、どんな汚れも過ちも見えません(第一ヨハネ4:11)。ひょっとして大きい過ちを見つけたとしても、むしろ相手を憐れんで、変えられることを期待して力づけることができます。憎しみを徹底的に捨てて、敵をも愛された主の愛を持ってすべての人を愛する幸いな聖徒になり、天国で太陽のように輝く栄光の中にとどまりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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