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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

「神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。」

万民ニュース   第 146 号
5848
2014. 12. 28


「あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(出エジプト記20:7)



堂会長イ・ジェロク牧師




辞書では、「みだり」とは「@(規制などを受けずに)勝手気ままなさま。ほしいまま。A考えの浅いさま。思慮のないさま。無分別。」と定義しています。したがって「【主】の御名を、みだりに唱える」とは、聖なる神の御名を正しく使わないで、不敬虔にむなしく使うことを意味しています。

それなら、神である【主】の御名をみだりに唱えることがなぜ罪になるのでしょうか?具体的な理由を三つ調べてみましょう。


第一、創造主なる神を信じないことだからです。

人生と万物の意味を考察するという哲学者の中に「神は死んだ」と言った人がいるし、一般の人の中にも「神はいない」という言葉をむやみに使う人がいます。

以前、ソ連のある宇宙飛行士は「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」と言いました。しかし、アメリカの宇宙飛行士はほとんど神のご臨在を体験したと告白したのです。宇宙飛行士なら、自分が探険した空間が全体の宇宙に比べてどれほど小さいかをよく知っているはずなのに、極めて微小な宇宙空間を探険して、すべての宇宙を造られた神がいないと言うなら、どれほど愚かなことでしょうか。

<詩篇53:1>に「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。」とあります。謙虚な心で天地万物を見る人は、その中にいくらでも創造主なる神の証拠を見つけることができます(ローマ1:20)。

また、数多くの伝道者が生ける神と主イエス・キリストを伝えて知らせてくれます。それでも自ら心を頑なにして神を信じないのに、神についてむやみに口にするなら、神がどうして罪がないと言われるでしょうか。


二、神を侮ることだからです。

「悔る」とは、 相手を見下げて軽んじるという意味です。恐れ多くも創造主なる神を侮ったのに、罪がないと言える人はどこにいるでしょうか。

<詩篇96:4>には「まことに【主】は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。」とあり、<出エジプト33:20>に「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」とあるほど、神は大いなる偉大なお方です(第一テモテ6:16)。

被造物である人も、親や尊敬する人の名前をむやみに呼ばないし、どうしても名前を言わなければならない時は敬称をつけて表現します。それで、一時、イスラエル人は聖書に【主】という名が出てくると、その御名を直接言わないように「アドナイ」すなわち「わが主」と読むなど、神の御名を口にすることさえ控えたと言われています。

ところが、今日、神を信じるという人の中でも、神を侮って、何の益にもならない冗談を言いながら聖書の節をとんでもない引用の仕方をしたりします。「ことばは神」であるので、聖書のみことばをないがしろにするなら、これは神を侮るようなものです。

また、神の御名を借りて偽りを言うことも、神を侮ることであります。たとえば、自分の思いの中で浮かんだことを「神様が御声を聞かせてくださった。聖霊が働きかけられた」と神の御名を挙げるなら、ひどく礼義に反することです。

神は人の子らの心と思い、すべての言葉と行いを知っておられ、行ったとおりにさばかれます。これを信じるなら、恐れ多くもその方の御名をみだりに唱えることで【主】を侮る罪を犯すことはできないのです。

ここで一つ覚えておくことは、神を恐れる人は、神の御名を口にする時だけでなく、神と関連があるあらゆる分野でも謹んで自制するようになるということです。

たとえば、聖書に向かったり引用する時も、敬虔な心をもってします。また、聖殿と聖なる物を大切に注意深く扱い、神の財政も正確に執行します。仮に教会のコップや聖殿の窓ガラスをうっかり割ったとすれば、知らないふりをしてやり過ごすのではありません。いくらささいな物でも、神のものとして聖別されているからです。

また、神が力を授けて認めておられる人や聖霊のみわざについて語る時も、肉の思いによってさばいたり、無礼なことを言ったりしないように身を慎みます。神を尊んで恐れる人なら、神に属するすべてのことも敬虔に扱うのです。


第三、神の御名を借りて偽りを言うことだからです。

旧約聖書を読むと、にせ預言者たちがたびたび神のみことばだ、預言だと告げて、民を惑わしたことがありました。こういう人について、神は<申命記18:20>で「ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」と仰せられています。

恐れ多くも神の御名を借りて偽りを言うと、その罪は死刑に当たり、これは自分でさばきを招くことなのです(黙示録21:8)。また、神の御名によって偽って誓い、それを守らないことも、神の御名によって偽りを言って、その御名をみだりに唱えることです。

<レビ記19:12>に「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは【主】である。」とあるとおりなのです。ところが、神を信じる人の中でも、神の御名によって偽りを言うことがあります。たとえば、神のみわざでもないのに「祈っているうちに聖霊の声を聞いた。神様がつかさどって成し遂げられた」と習慣的に言うのです。

もちろん、神の子どもなら聖霊の声を聞いて導かれなければなりませんが、神の子どもだからといって、誰でも聖霊の声を聞くのではなく、罪を捨てて心を真理で満たすほど、だんだんと正確に聞くようになるのです。聖霊の声を少し聞いているとしても、100%になるまでは、聖霊の声なのかそうではないのか、自分で聞き分ける訓練過程があるものです。ですから、まだ確実に聞き分けられない時は、むやみに断定することは慎むべきです。

夢や幻などの霊的な体験も同じです。たとえば、夢には神が下さる夢もありますが、自分の思いやサタンのしわざによって見る夢もあります。だから、どんな夢でも「神様が下さった夢」と言うなら、正しくありません。また、ある人が「聖霊が言われた」と言うなら、聞いたほうは慎重にならなければなりません。祈って正確に知る前には、軽率に「聖霊の声だ、そうではない」と断定したり無視せずに、慎重な姿勢になるべきです。

ところで、ある人は自分が罪を犯してサタンのしわざによって災いに遭ったのに「神様が打たれた」と言います。また、事がうまく運べば「神様が祝福された」と言い、もつれると「神様が防がれた」と習慣的に言葉を変えて、神の御名を正しくないように使うのです。自分ではそれを信仰の告白だと言うけれど、真実な心からすることと、自分を目立たせて軽率な心から神の御名をみだりに使うこととは全く違います。

まことにすべてのことに神を認める人なら、信実で慎み深い心で神の御名を口にすることに気をつけて、真理の中で行おうと努力するでしょう。愛する聖徒の皆さん、

心から神を尊ぶならば、当然神の御名をみだりに唱えるのではなく、すべてのことにおいて神を恐れるでしょう。それで神も皆さんを尊ばれ(第一サムエル2:30)、すべての言葉と行動にともにおられ、天国でも最も栄光ある座まで導いてくださいますよう、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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