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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」

万民ニュース   第 145 号
4205
2014. 11. 23


「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない・・・・・・。」 (出エジプト記20:4-6)



堂会長イ・ジェロク牧師



十戒の第ニ戒はちょっと見ると第一戒と似ているように思うかもしれません。しかし、第一戒「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」は多神論に対する警告であり、まことの神は創造主の神おひとりだけであって、その方だけを愛して仕えなさいというみことばです。一方、第ニ戒「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」は偶像礼拝についての教訓です。

では、まず偶像について調べてから、第ニ戒の霊的な意味を調べてみましょう。


1. 肉的な意味の偶像

偶像とは「かたちのない神を木・石・土・金属などで作り出した像として、あこがれや崇拝の対象となるもの」を言います。木や石、鉄、金、銀などで人のかたちや、地の上にいる動物、昆虫、鳥、魚、太陽、月、星、あるいは想像上の何かを物のかたちに作って、拝んで仕えることが、すなわち偶像礼拝なのです。

人が作った偶像にはいのちがなく、祝福を与える力もありません。それなのに、創造主なる神のかたちに造られた人が自分の作った偶像に仕えて、その前で祝福を求めて拝むなら、どれほど愚かなことでしょうか(イザヤ46:6-7)。また、お守りに頼ったり、死んだ人を祭ったりなど、迷信的で呪術的な行為も偶像礼拝に当たります。

人がこのようにむなしい偶像を作って拝むのは、人には目で見て、手で触ってこそ満足を感じる属性があるからです。しかし、霊である神を決して何かのかたちに作って仕えてはなりません。

ある人は神を信じながらも偶像を作って仕えています。たとえば、イエス様の絵やかたち、おとめマリヤや昔の信仰の人々のかたちを作って拝むのです。イエス様の姿は画家や彫刻家の作り出した想像にすぎないもので、実際のお姿ではありません。また、おとめマリヤや昔の信仰の人々は被造物であり、拝む対象ではないのです。それなのにその前で拝んで祈れば、偶像になるのです。ただ神だけが私たちが拝んで祈る対象だからです。

ある人は「十字架」まで偶像だと言ったりしますが、十字架は私たちが信じている福音の象徴物です。私たちが十字架を仰ぐ理由は、イエス様の尊い血の力と救いの恩寵を覚えるためのものだからです。十字架そのものが礼拝の対象や偶像になるのではありません。

また、イエス様が羊を抱いておられる聖画や、最後の晩餐などの絵も、それ自体が偶像なのではありません。イエス様が良い牧者であるということや、その行跡を表現するための絵であるだけで、聖画を神聖視して拝んだり祈ったりするのではないからです。

ところで、イスラエルの民が神に逆らって、燃える蛇にかまれて死にかけていたとき、モーセが作った青銅の蛇を仰ぎ見て死ななかった記述(民数記21章)をもって「モーセも偶像を作った」と言うことがあります。この時、神が青銅の蛇を作るようにされたのは、やがて私たちを救うことになられるイエス・キリストを表すしるしとして下さったからです。青銅の蛇を仰ぎ見た人が滅ぼされなかったように、死の道に向かっていた魂が十字架につけられたイエス様を主と信じて受け入れるとき、救われていのちを得ることを表しているのです。


2. 偶像の霊的な意味

それでは、霊的な意味で偶像とは何でしょうか?それは「神よりも愛するすべて」です。人が親や夫、妻、子ども、あるいは自分自身を神よりも愛するなら、まさに彼らが霊的に偶像になるのです。このみことばは、ただ神だけを愛して、他の人を愛してはならないという意味ではありません。

たとえば、神の子どもたちが真理にあって親を愛することは当然であり、神も「あなたの父と母を敬え。」と言われました。しかし、親を愛するからといって、主を信じない親の心に合わせるために主日を守らないなら、これは神よりも親のほうを愛するということです。これは神を悲しませるだけでなく、親をまことに愛すると言えないのです。救われるように伝道してこそ、まことに親を敬って愛すると言えるでしょう。

親の立場でも同じです。本当に子どもを愛するなら、神をまず愛さなければなりません。いくら子どもを愛していても、敵である悪魔から守ることも、不治の病にかかったとき、いやすこともできません。親が神を恐れて、子どもを主にあって愛してこそ、神ご自身が子どもを守ってくださり、健康であるようにして、すべてのことに栄える祝福を下さるのです。

このように神をまず愛して、その中ですべての人を愛するとき、はじめてまことの愛を分かち合えます。このような霊的な意味を知らずに、教会に行けば神様だけを愛して、家族を愛さないようにと言うと誤解してはいけません。

今日、神を信じるといっても、物質のほうを愛し、名誉と権勢を守るために戒めを破る人もいますが、これらすべてが霊的な偶像礼拝であります。この他に、芸能人やスポーツ選手、何かの事や物にすっかり心を奪われて神を遠ざけるなら、これも偶像になることがあります。


3. 偶像礼拝をしてはならないという戒めに従う時の祝福と従わない時の呪い

<出エジプト記20:5-6>に「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」とあります。

神のねたみは人のねたみとはその意味が違います。人のねたみは醜くて汚いし、相手に害を与えますが、神のみねたみは愛から出ています。もし偶像に仕えれば、神はその人から御顔を背けられるので、敵である悪魔・サタンが支配するように渡されます。するといろいろな試練や患難、災いによって心が貧しくなり、自分の過ちを悟って悔い改めて、神に立ち返るようになります。

このように神のねたみはご自身の子どもたちが滅びの道でなく、永遠のいのちの道へと行けるように導く、まことの愛の表現です。それでも神より偶像のほうを愛して拝むことは、神を憎むようなものです。このような者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぶようになります。つまり、いろいろな病気や体の不自由な人、精神異常者などが出てきて、患難が絶えません。しかし、先祖が偶像を拝んで神に逆らったとしても、子孫の中に悔い改めて神を捜す人がいるなら、神の憐れみをいただいて災いがやむようになります。

ところが、先祖が神に逆らって、偶像をひどく拝んで悪を積んだ時は、神を信じることもやさしくないし、主を受け入れるとしても、先祖と霊的な絆で結ばれているようなものなので、信仰生活が苦しくなります。敵である悪魔・サタンが訴え続けて、何としてでも死へと引いて行こうと、信仰が持てないように妨げるからです。ですが、最後までへりくだって、先祖の罪を代わりに悔い改め、自分の悪を捨てながら神の憐れみを求めれば、神の恵みにあって守られることができます。

反対に、神を愛して戒めを守る人は、千代にまで、すなわち、永遠に恵みをいただくようになります。災いは三、四代にまでですが、祝福は千代にまでに施される神の愛を、もう一度悟らなければなりません。

愛する聖徒の皆さん、
神を恐れるなら、自分だけでなく子孫にも祝福が臨みます。しかし、先祖が神によく仕えたからといって、どんな場合でも祝福されるのではありません。自分自身が神を愛して真理の中にとどまり、偶像で自分を汚してはなりません。霊肉ともに偶像を作ったり拝んだりしないで、神を愛して千代にまで約束された神の祝福を豊かにいただいて味わいますよう、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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