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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

平和によって結ばれる義の実

万民ニュース   第 142 号
4172
2014. 08. 24


「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(ヤコブ3:18)



堂会長イ・ジェロク牧師







<ヤコブ3:17>に「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」とある。続く18節には「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」とある。

17節にある「平和」はおもに人との平和を意味し、18節の「平和」は神との平和を意味している。「神との平和」とは、神と自分との間に罪の壁がないことを言う。私たちが純真と平和、寛容と温順、あわれみと良い実を心に耕し、えこひいきがなく、見せかけのないものに変えられたとき、「平和をつくる人」になって、義の実を結ぶことができるのだ。

このように平和のうちに蒔かれ、義の実を結ばせるためには、どうすればよいだろうか?


1. 平和をつくる人

目に見える人との平和だけを考えて、神との平和を壊すことが多い。真理に逆らって不義と妥協しながら「平和をつくる知恵」だと思うのだ。人との情のゆえ、みことばに逆らったりもする。その例が保証人になることやお金の取り引きである。

神は「他人の負債の保証人となってはならない。」(箴言22:26)、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」(ローマ13:8)と命じられた。ところが、実際に身近な人が困っていると、保証人になってほしいと言われたり、事業の資金を貸してほしいと言われるなら、むげに断れないのだ。これは知恵がなく、自ら困難を招くことである。だから困った状況に陥り、敵になることもある。これは人との平和を、神との平和より先に考えたからである。

したがって、自分の利益を求めて妥協することと、神の栄光のための平和をよく見分けなければならない。ダニエル書3章を読めば、人との平和を考えるより神との平和をつくることで大いに栄光を帰したダニエルの三人の友だちのことが記されている。

ある日、バビロンのネブカデネザル王は金の像を造って、すべての民がその前にひれふして拝むように命じる。拝まないなら、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれると脅した。

この時、ダニエルの三人の友だちは偶像を拝むことは神に対する大きい罪であり、神との平和を壊すことなので、最後まで拝まなかった。彼らが王と平和をつくるには、偶像の前で一度だけ拝めばよい。しかし、神との平和を重要視したので、人との平和を優先しなかったのだ。

結局、彼らは普通より七倍も熱くした火の燃える炉に投げ込まれた。だが神が守ってくださったので、頭の毛も焦げなかったのだ。するとネブカデネザル王は全能の神をほめたたえ、ダニエルの三人の友だちをバビロン州で栄えさせた。


2. 神が認められる義の実を結ぶには

世では憎しみ、憤り、ねたみ、争い、姦淫、欲など、心に多くの悪があっても、行いで罪を犯す前は不義とは言わない。しかし、神は行いで罪を犯さなくても、心に悪があれば不義と言われる。このように人が思う義と、神が言われる義とは違う。

聖書には「しなさい、してはならない、守りなさい、避けなさい」というみことばがある。このみことばどおり、責められるところがないように行うことが神の御目に義を行うことである。人が思う義と神の御目に正しいことが違う時は、必ず神の義のほうを選ばなければならない。

たとえば、神を信じると言いながら、先祖を祭る時に手を合わせることや占いは大丈夫と言う人がいる。「わが国の麗しい習慣なのにどうか」「手を合わせないならクリスチャンでない家族の心を痛めるので、家庭福音化の道がふさがれる」と言う。これは霊の世界で敵である悪魔・サタンに屈服することである。神との平和が壊されれば、神が助けることがおできにならなくなるので、家庭福音化はさらに難しくなるだけだ。

<箴言16:7>に「【主】は、人の行いを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。」とあるように、神とまず平和をつくるとき、人とも平和をつくることができる。仮に神との平和を壊して人と平和をつくるなら、その平和はいつでも壊れることがありえるし、何の益にもならない。日常生活でも、神のみこころにかなうほうを選ぶだけでなく、方法論でも良い知恵をいただかなければならない。それでこそすみやかに答えられて、すべての人とも平和をつくることができるのだ。

神との平和は、神と自分との関係だけでなく、全家を通じて忠実であることとも関連する。全家を通じて忠実であるとは、自分が属しているあらゆる分野で忠実であることだ。このような人は仕えと犠牲、愛と徳をもって、すべての人と平和をつくるようになる。すると神の御前に霊的に大胆になり、求めることは何でも答えられて、義の実を結べるのだ。


3. 神と平和をつくれば上から知恵をいただく

すべての人類は最初の人アダムの不従順によってその原罪を受け継いで罪人とされたので、神との平和が壊れた。しかし、罪のないイエス様が十字架につけられて死なれ、なだめの供え物になってくださった。これによって誰でもイエス・キリストを信じれば、神の子どもとされた特権を受けて、神と平和をつくる道を開いてくださったのだ。

<ローマ5:1>に「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とある。それでは、私たちが神と平和を持っているためには、どうすればよいだろうか?罪が赦されたからといって、それで終わりではない。信仰によって義と認められたなら、それからは行いのあるまことの信仰に成長しなければならない。罪と悪を脱ぎ捨てて、神の義を心に耕していくのだ。

もし行いのある信仰に成長しないで、相変わらず罪の中に生きているなら、再び神との平和が壊れるようになる。神はひとり子を惜しまず渡してくださるまで、すべてを犠牲にして私たちと平和をつくられた。だから、私たちのほうからこれ以上平和を壊すことがあってはならない。すみやかにすべての罪と悪を脱ぎ捨てて、いつも神と平和を保っているだけでなく、ますます深い信頼関係を作り、義の実が満ちるようにしなければならない。

神と平和をつくっている人は、他の人も神と平和をつくるように導くことができる。出エジプトの指導者モーセがそうだった。イスラエルの民が神につぶやいて鋳物の子牛を造って伏し拝むなど、神の御前に大きい罪を犯した。この時、モーセは自分が地獄に行くとしても彼らが救われるようにと神に求め、イスラエルの民は赦しと憐れみをいただくことができた。

このように神と平和をつくった人は神の知恵をいただき、生きにくい世の中でも多くの人を慰めて平安をもたらし、祝福の道へと導くことができる。神の知恵とは、聖書に記されているみことばそのものである。戒めを守って悪を捨てて聖められ、聖霊に導かれるなら、上から神の知恵が臨み、義の実が豊かに結ばれるようになる。

愛する聖徒の皆さん、
<ヤコブ3:17>にある純真と平和、寛容と温順、あわれみと良い実、えこひいきがなく、見せかけのないものなどを心の奥深く刻み、人との平和はもちろん、神との平和を完全につくられるように。それで、平和をつくる人として神の平安の中にとどまり、豊かな義の実を刈り取り、天国でも太陽のように輝く栄光を受けられるよう、主の御名によって祝福して祈る。


 

 

 
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