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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

愛は人のした悪を思わず

万民ニュース   第 128 号
4430
2013. 06. 23


「礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、怒らず、
人のした悪を思わず、」
(第一コリント13:5)



堂会長イ・ジェロク牧師



同じ場面を見ても、良いほうに思う人がいるかと思えば、否定的に思って簡単に人をさばく人もいます。本人にした話でもないのに自分のことだと誤解して、周りの人を困らせます。良い思いは平安といのちを与えますが、悪い思いは百害あって一利なしで、自分の人生を不幸にします。さらに周りの人々にも否定的な影響を及ぼします。
このように、私たちが人のした悪を思うことは、自分の人生だけでなく、さらに周りの人々まで苦しめるのです。それでは、私たちが人のした悪を思わないで、霊の愛を心に耕すためには、どうすべきでしょうか?


1.人のした悪を思わないためには
1)相手がうまくいかないように願う心を捨てなければなりません
たとえば、ふだんから何か気にいらないところのあった友だちが豊かな暮らしをしていると、その友だちが自慢しているようで、ねたんでそねみます。この時、「あの子はいい暮らしをしてるのに、私は何なの? あの子が困ったらいいのに」という思いがよぎったなら、それは確かに悪い思いなのです。
心に霊の愛があれば、決してそう思いません。愛する人が病気になったり、事故にあってほしいと思う人はいないでしょう。自分の妻は、夫は、子どもは、いつも健康でうまくいってほしいと願うのです。ところが、たとえ自分に悪を行った人であっても、その人がうまくいかなかなければいいと思い、相手の不幸を喜ぶということは、それだけ自分の中に愛がないという証拠です。だから、相手の過ちや弱点を暴いて、伝えようとするのです。
相手が間違った道に行くのを防いで、善の道へと導くために、何かの事実を知っておくべき場合もあります。そうでなければ、人の話に耳をそばだてて知りたがるのは、自分の中に悪口とひそひそ話を好む、真理に逆らう心があるからだと認めなければなりません。
<箴言17:9>に「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。」とあります。心が良くて愛のある人は他人のそむきの罪をおおってあげようとして、暴こうとしません。また、自分に悪を行った人でも、ほめられて認められれば、ねたんでそねむのではなく、一緒に喜んで幸せに思います。

2)相手をさばいて罪に定める心を捨てなければなりません
ある人がクリスチャンとして行ってはいけない所に入るのを見たとしましょう。この時、心に悪があれば、「どうしてあんな所に出入りできるのか」と悪い思いがよぎります。良い心があるなら、「なぜあんな所に行ったのだろうか。何か事情があるんだろう」と良いほうにすぐ思いを変えます。
心に悪がなくて霊の愛がある人は否定的な思いそのものをしません。仮に自分に悪を行った人について良くない話を伝え聞いても、事実かどうかを確認する時まで、うかつにさばかないのです。
<ヤコブ4:12>に「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか」とあります。神様だけが正確なさばきを行われるのであって、私たち人が他人をさばくことは悪です。
霊の愛があれば、仮に相手が自分に悪を行ったとしても、下手に正しい正しくないをはっきりさせません。その人をかわいそうに思って、何としてでも助ける道をまず考えます。そむきの罪をおおって赦すだけでなく、相手が悔い改められるように助けてあげます。自分に悪を行った人もこのように愛するのに、そうでない人に対する時はどうでしょうか。ひょっとして人を簡単にさばいて罪に定めているならば、それだけ霊の愛がないことを悟らなければなりません。

3)神様のみこころに反するすべての思いを捨てなければなりません
人は一般に、道徳的で良心的な人を善良だと言います。しかし、道徳や良心は善の絶対的な基準になれません。神様のみこころと反対になるものも多いからです。絶対的な善は神様のみことばだけです。これから外れたことはすべて悪であり、罪です。
私たちが主を受け入れれば、自分が罪人であることを告白します。いくら善良に生きていると自負していた人も、みことばに照らしてみれば、偽りで悪いことが多いので、「私は罪人でした」と悔い改めて罪を言い表すのです。
それでは、罪と悪の違いは何でしょうか? 木にたとえれば、「悪」は見えない地の中の根のようなものです。「罪」は目に見える幹と葉、実だと言えます。根があるので木の幹や葉、実が出てくるように、罪は悪から出てくる産物です。
悪は、地の中に深々と下ろしている根のように、心の中にある「属性」であり、この悪が具体的なかたちとして現れるものが、まさに罪です。それで、<ルカ6:45>に「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」とあるのです。
たとえば、ある人が汚い言葉を吐いて、暴力を行使したとしましょう。これは、心にある「憎しみ」という悪が「汚い言葉」や「暴力」という行い、すなわち、罪として出てきたものです。しかし、心に悪があるからといって、必ずしも罪を犯すのではありません。教養があったり、みことばを聞いて自制すれば、罪としては出てこないのです。しかし、それでは、心の中に悪があるのできよいとは言えません。その罪の性質まですべて捨ててこそきよいと認められて、霊の愛を実践できるのです。
神様は愛です。神様の戒めも圧縮すれば「愛」です。したがって、私たちが心に留めるべきことは、人を明らかに憎んで嫌うことだけが悪であり、罪なのではなく、結局愛さないことも悪で罪だということです。したがって、悪はどんな悪でも避けて、さらに愛することに努めなければなりません。


2.霊の愛を心に耕すためには

何より真理に逆らうものを見たり聞いたりしてはいけません。もし真理に逆らうものを見て聞いたならば、思い出したり覚えておかないために努力しなくてはなりません。ところが、思わないようにすれば、もっと浮かぶのが問題です。こうであるほど、さらに火のように祈りながら、聖霊に助けていただかなければなりません。また、わざわざ悪いものを見て聞いて思い浮かべることはあってはならないし、一瞬よぎる悪い思いも捨てるべきです。悪い行いをともにすることも決してあってはなりません。
人は、持って生まれた罪の性質と、成長しながら見て聞いた真理に逆らうものを土台に、自分というものが形成されます。それで、罪の性質と真理に逆らうものを捨てるには、多くの忍耐と努力が必要です。真理よりも真理に逆らうもののほうが慣れているし、真理に逆らうものを受け入れるのはやさしいけれど、捨てるのは相対的に難しいのです。しかし、私たちが誰かを熱く愛すれば、自然にその人が好きなことは好きになり、嫌いなことは嫌いになるように、神様をこの上なく愛すれば、神様が喜ばれるように戒めを守って、悪はどんな悪でも避けられるのです。
次に、霊の愛を心に耕すためには、何より「みことば」を糧として、火のような「祈り」をしなければなりません。昼も夜もみことばを口ずさんで、悪い思いを退けて良い思いをして、火のように祈っていくと、そこまでは悟れなかった自分の思いと言葉と行いの中にある悪を発見して、捨てることができるのです。
愛する聖徒の皆さん、霊の愛は人のした悪を思わないと言いました。みことばと火のような祈りですみやかに悪はどんな悪でも避け、すべてを良いほうに思って真理を行う御霊の人になりますように、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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