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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

愛は高慢になりません

万民ニュース   第 124 号
5498
2013. 02. 24


「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(第一コリント13:4)


信仰と希望は私たちが天国に行くために一時的に必要なものですが、愛は永遠のものです。それで、信仰と希望と愛の中で一番すぐれているのは愛なのです。コリント人への手紙第一13章に出てくる霊の愛15の属性のうち、五番目は高慢にならないことです。聖書を読むと、神様が特に嫌われる悪の一つがまさに高慢であることがわかります。


1. 高慢な人の特徴

高慢とは「自分の才能・容貌などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下すこと。また、そのさま。」です。高慢な人は自分を第一と思うので、すべてのことにおいて相手を無視して教えようとします。ふつう自分より劣っていそうな相手に対して現れますが、極端な場合は目上の人までも無視します。
このような人と話をすれば、しばしば議論につながり、争いが生じます。それどころか、互いに自分が正しいと言って憤り、けんかにまで発展します。<箴言13:10>に「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。」とあり、<第二テモテ2:23>には「愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。」とあります。
人はそれぞれ良心が違って、知識も違います。生きてきながら見て聞いて学んで体験したことが、それぞれ違うからです。このような知識には間違いも多いのです。これらのものが長い時間かけて固まれば、自分だけの「義」と「枠」が形成されます。
「義」とは、自分が正しいと思うことであり、これが固まって「枠」になるのです。性格が枠になったり、自分が知っている知識が一つの枠になったりもします。「枠」はちょうど硬い骨格のようなもので、自分だけの姿を作るだけでなく、ひとまず形成されれば、打ち砕かれるのがやさしくありません。
人の思いも、だいたい義と枠から出てきます。自己卑下が多い人は、金持ちがえりだけ整えても「服を自慢してる」と思うし、誰かが難しい文章を書くだけでも、自分を無視していると感じます。
小学校の時、私は先生から自由の女神像はアメリカの西部、サンフランシスコにあると教わりました。ところが、1990年代の初め、連合聖会を導くためにニューヨークへ向かう飛行機の中で、私の知識が間違っていたことがわかりました。自由の女神像はサンフランシスコではなく、ニューヨークにあったのです。
その時、私は「自分が正しいと信じていることも違うことがある」ということを悟りました。このように、人それぞれ正しいと言い張るものには、正しくないものが多いのです。
高慢になると、自分が間違っていてもそれを認めないで、主張し続けて議論につながります。しかし、へりくだった人は、たとえ自分の主張が正しくて相手が間違っていても、議論しません。100パーセントの確信があっても、万に一つ自分が間違っていることもあるという余地を残すのです。あえて相手を抑えつけたい心がないからです。
へりくだった心には、それだけ自分よりも人がすぐれた者と思う霊の愛があります。相手が自分より貧しかろうが、学んだことが少なかろうが、力が弱かろうが、心から自分よりもすぐれた者と思うのです。たとえ子どもであっても、その心を配慮します。すべての魂はイエス様の血の代価によって救われた神の子どもとして尊い存在だと思うからです。


2. 肉的な高慢と霊的な高慢

ほとんどの場合、目につくほど自分を誇って人を無視するなど、うわべに現れる高慢は簡単に発見できます。これを「肉的な高慢」と言います。これは、イエス・キリストを受け入れて真理を知れば、捨てるために努力するので比較的簡単に捨てられます。一方、霊的な高慢は、自ら発見することもやさしくないだけでなく、捨てることも難しいのです。
それでは「霊的な高慢」とは何でしょうか? 信仰生活を長くすると、みことばを聞いてたくさん知っています。務めと使命を受けて地位が高くなったりもします。そうなると、自分が知っているみことばを心に耕したように錯覚します。また、相手を指摘してさばき、罪に定めていながらも、自分は真理によって正しいか正しくないかをわきまえていると思います。
ある人は必ず守るべき手続きを自分の利益を求めて無視したりもします。明らかに秩序に逆らう行動なのに、「私はこれぐらいの地位にいるので大丈夫。私は例外だ」と思います。このように高くなった心を「霊的な高慢」と言います。心が高くなって神の法と秩序を無視しているのに、「神様を愛している」と言うなら、これはまことの告白になれません。他の人をさばいて罪に定める心も、まことの愛だと言えません。
人は誰でも聖められる前は高慢になりうる属性があるので、このような罪の性質を根こそぎにすることは非常に重要です。火のような祈りで完全に引き抜かないなら、ある瞬間、再び高慢な姿が出てくるからです。まるで雑草を刈っても、根が残っていればまた芽を出すようなものです。つまり、罪の性質を心から完全に引き抜いたのではないので、信仰生活をしているうちに、また高慢が芽生えてくるようになるのです。
したがって、いつも子どものように主の御前に自分を低くして、自分よりも他の人をすぐれた者と思って、いのちを尽くして仕える最高の愛を実践するまで、変わらず信仰の道を走って行かなければなりません。


3.自分を信じて生きている高慢な人々

ネブカデネザル王は大帝国バビロンの黄金時代を開いた人です。古代の七不思議の一つ「空中庭園」も、彼の時代に作られました。彼は自分の王国と業績を自分の力だけで作り上げたと自慢して、自分を神のように拝ませました。
神様は高慢な彼に、世の支配者が誰なのか諭してくださいます(ダニエル4:30-32)。結局、彼は王の宮殿から追い出され、牛のように草を食べ、髪はぼさぼさのまま、荒野で七年間、野の獣と変わらない生活をします。七年後、正気に返ったネブカデネザルは、自分の高慢を悟って神様を認めます(ダニエル4:33-37)。
ネブカデネザル王だけでなく、神様を信じない人々の中には「私は自分を信じて生きている」という人がいます。しかし、生きていれば、人の力で解決できない問題が本当に多いのです。科学と医学が発達したとはいえ、いまだに台風、地震などの天災地変や新型の病気の前では手をこまねいているだけです。
もどかしいことは、神様を信じていると言いながらも、相変わらず自分と世に頼る人がいるということです。神様は助けようとされても、人のほうから高慢になって自分を低くしないならば、神様も介入することがおできになれません。ですから、敵である悪魔・サタンの妨害から守られることも、栄えるように導かれることもできないのです。
愛する聖徒の皆さん、神様は高慢な人を「愚かだ」と言われます。大いなる神様の前に、人の子らはみな微々たる存在であるだけです。たとえいくら自慢するようなことが多いといっても、この世はつかの間にすぎず、後には必ずさばきがあります。
結局、各人が神様の前にへりくだって行い、仕えたほど天国で高い人になります。<ヤコブ4:10>に「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」とあるように、主が高くしてくださるからです。したがって、へりくだって自分を低くし、神様の前にこの上なく偉い者、尊い人になりますように、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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