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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

光の中を歩みなさい

万民ニュース   第 110 号
5425
2011. 12. 25


「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」 (第一ヨハネ1:6-7)


皆さんは神と交わりがあると自信を持って言えるでしょうか? 交わりとは一方的なものではありません。単に自分のほうから相手を知っているからといって、交わりがあるとは言わないのです。国民ならば、自分の国の大統領が誰なのかみな知っています。ところが、大統領を知っているからといって、その方と交わりがあると言えるでしょうか? 自分は大統領をよく知っていても、大統領が自分を知らなければ交わりがあると言えないのです。
神との間でも同じです。全知全能の神と交わりがあるなら、その人は求めることは何でも答えてくださる方なので、すべてのことが栄えて、まことに幸いな人生を歩むことができます。


1. 光である神と交わりがあるには

人はそれぞれ交わりの程度が違います。顔だけ知っている関係があるかと思えば、安否を聞くもう少し近い関係もあって、とても親密に秘密も分かち合える関係もあります。神と人との関係も同じです。まことの交わりになるためには、神が自分のことを知って、信じて認めてくださらなければなりません。
聖書には、神ととても親密な関係を保ったダビデが出てきます。彼は「わたしの心にかなった者」と神に認められました。ダビデは神を愛して恐れ、すべてのことにおいて神に全面的に頼りました。サウル王に追いかけられていた時や戦争に出て戦う時も、子どもが親に聞くように、一つ一つ神にお伺いを立てました。
<第二サムエル5:19>に「ペリシテ人を攻めに上るべきでしょうか。彼らを私の手に渡してくださるでしょうか。」と伺いました。すると【主】が「上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」と仰せられました。
また<第二サムエル5:23-24>には「そこで、ダビデが【主】に伺ったところ、【主】は仰せられた。『上って行くな。彼らのうしろに回って行き、バルサム樹の林の前から彼らに向かえ。バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。そのとき、【主】はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているから。』」とあります。
このように神がダビデに細やかに教えられて、ダビデは行く所はどこでも勝利することができました。私たちも神と交わりがあるなら、ダビデのように求めることは何でもいただくことができます。ところが、神の子どもと言いながら、答えと祝福をいただいていないなら、「本当に私は神様と交わりがあるのか?」自分を深く顧みなければなりません。
多くの人が神のことばを頭に知識としてだけ入れておいて、行いません。そうしながら「神様を知っている、神様と交わりがある」と思っています。はたしてそうでしょうか? みことばを知っていることも大切ですが、行うことはもっと大切です。みことばどおり行う時でこそ、神の力を引き下ろすことができ、その口のことばを神が確かなものとしてくださり、祈りの答えもすみやかに臨むからです。
また、神との交わりがさらに深くなるには、心の割礼が必ず伴わなければなりません。たとえば、神の働きをする時も、肉的にだけ熱心にすることと、心を割礼しながら忠実に仕えることには、天と地のような差があります。心は変えさせないで、働くことにだけ汲々とすれば、自分の熱さだけでするようになって、誰かがわかってくれないなら、むなしく思うのです。そのうちつらくなるなら、使命をやめようかどうか悩みます。
一方、心を割礼しながら忠実に仕える人は、時には心に合わない人がいても、平和をつくるために努めます。困難がやって来ても、神にゆだねて祈りながら、神の働きをやり遂げていきます。


2. 心の割礼によって聖められた心に変えられてこそ

<マタイ23:23>を見ると、イエス様が「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」と言われています。イエス様は、律法学者とパリサイ人たちが食物に対する十分の一献金まで徹底的にささげているが、いざとなれば重要な心の割礼はしていなかったので、叱責されました。それでは「正義とあわれみと誠実」とは何でしょうか?
「正義」とは「神の法、公義の基準に照らして正しいことを追い求めること」です。「あわれみ」とは「愛と徳」を意味します。心に愛と徳があってこそ、戒めを神の心にかなうように守れるからです。「誠実」とは「真心から神に対すること」すなわち「信仰」を意味します。したがって、私たちが光の中を歩んで、神と交わりを持つためには、心の割礼をして聖められ、聖なる心に変えられなければなりません。
神はどれほど心の割礼をしたかに応じて、祈ることはどんなことでも、すみやかに答えて祝福してくださいます。それほど神と交わりを保っているという証拠です。聖書に「してはならない、捨て去りなさい」と書いてあることはしないで捨て去り、「守りなさい、しなさい」と書いてあることを守って行えば、私たちの心がきよくなります。このように私たちの心の汚れたものを捨てて、真理で満たしていくことが「心の割礼」です。
たとえば、神のことばに「憎んではならない」とあるので、憎しみを捨てて心に愛を満たします。ところが、心の割礼は一度で終わったり、聖霊を受けたからといって、一瞬にしてできるのではありません。肉の行いと肉的なことを捨てる時まで、し続けなければならないのです。
まずは、行いで犯す肉の行いを捨てなければなりません。たとえば、酒、タバコをしているならやめて、憤って争ったなら、このような姿を捨てるのです。このように行いで犯す罪を捨てると、次は、もっぱら肉的なことを考えていたことを捨てなければなりません。まだ行いとしては現れていないが、心の中に持っている憎しみ、そねみ、ねたみ、欲、私心、姦淫などを完全に捨て去らなければなりません。火のような祈りと断食によって聖霊の助けと神の恵みをいただき、主によって強くされれば、十分に捨てることができます。このような肉的なことを捨てる時でこそ、神とさらに深い交わりを持つことができるのです。


3. 光の中を歩みなさい

<第一ヨハネ1:7>に「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。私たちが神のことば、すなわち、真理のとおり行えば、神と交わりを保ち、神のまことの子どもになれます。それなら、イエス様の血がどのようにすべての罪から私たちをきよめるのでしょうか?
<ヨハネ6:53-54>に「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。』」とあります。
ここで「人の子」とは、イエス様のことです。「人の子の肉」とは、神の真理のことばを意味します。なぜなら、ことばが人となって、この地上に来られた方がまさにイエス様だからです(ヨハネ1:14)。したがって「人の子の肉を食べる」とは、聖書66巻に記された神のことばを糧とすることです。また「血を飲む」とは、みことばどおり行うことを意味します。
私たちが聖書に記された神のことばをよく心の糧として行う時でこそ、真理が私たちの中で滋養分になって、罪の性質はちりあくたとして排泄され、真理の人になります。これがすなわち、神と交わりを保っている姿です。このような交わりを通して、私たちは光の中を歩んでいる霊的な人になれます。
この世は罪と悪がはびこって、漆黒のように暗くなり、善と愛を見つけにくくなりました。このような時に、熱心に神のことばを心の糧として完全に行い、誰よりも神と親密な交わりを保ち、何をしようが栄える祝福の主人公になりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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