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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(23)

万民ニュース   第 92 号
6259
2010. 06. 20


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

「『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕」(マルコ16:16-20)


1. 神様に喜ばれる信仰の証拠として信じる人々に伴うしるし

罪を捨てて聖められた信仰の五段階の人が御霊に感じているうちに数えきれない祈りを積めば、神の力が臨むようになって、いろいろなしるしと不思議が行なえるようになります。本文[マタイ16:17-18]にある「信じる人々に伴う五つのしるし」のうち、前回は「主の御名によって悪霊を追い出し」「新しいことばを語り」の二つを説明しました。今回は残る三つを説明します。

3) 蛇をもつかむ
第三のしるしは「蛇をもつかむ」ことですが、この「蛇」とは、土をはう蛇でなく、霊的な意味の蛇のことです。[ヨハネの黙示録12:9前半節]に「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。」とあるように、「蛇」とは「敵である悪魔・サタン」を表します。それで、神様を信じる者が「蛇をもつかむ」とは、教会の中で起こる「サタンの会衆」を破壊する権威があることを言っているのです。
[ヨハネの黙示録2:9後半節]にあるとおり、「サタンの会衆」とは、自称ユダヤ人、すなわち、自分たちは神様に属する人だと思っているけれど、自分の思いと益に合わないからといって、神様の働きを妨げる群れのことを言います。すなわち、教会の中でふたり以上が集まり、不平、不満を言って、さばいて罪に定め、仲違いして分離し、党派を作っていくことです。教会の中にこのようなサタンの会衆ができれば、愛が冷たくなって、神様の働きが途絶えます。ところが、五段階の信仰の人はサタンの会衆が見抜けて、みことばの権威によって打ち砕くことができるのです。

4) たとい毒を飲んでも決して害を受けず
[使徒の働き28:1-6]で、まむしが使徒パウロの手に取りついたのに、何の害も受けないので、多くの人々が彼を神のように感じたことが記されています。このように全き信仰に至れば、毒物や劇物や有毒ガスなどにも害を受けないで守られます。病気を誘発する細菌やウイルスが入ってきても、直ちに聖霊の火で焼き尽くされます。しかし、いくら力ある人でも、神様を試みるためにわざと毒を飲めば、神様が御顔を背けられるので守られません。[マタイの福音書4:7]に「あなたの神である主を試みてはならない。」とあるとおり、十分の一献金以外には神様を試みることは禁じられているからです。

5) 病人に手を置けば病人はいやされます
信仰の五段階に至って神の力が臨めば、自分にも病気が入ってこないし、他の人の病気も治せます。ところが、力ある人が病気にかかった者に手を置いても、祈りを受ける人に信仰がなかったり、神様との間に罪の壁があったりすれば、いやされません。
本教会では毎週、数えきれないほど多くの人々が私に祈りを受けていやされています。最近はインターネットや衛生放送GCNでも、時間と空間を超えた神の力を体験する人が多いです。しかし、同じように祈りを受けても、信仰がなく偶然の幸運を願って来るなら、いくら大きい神の力がこの教会に現れていても、誰でも神のみわざを体験するのではありません。まずみことばを聞いて信仰を持つべきで、罪を悔い改めて「祈りを受ければ治る」と信じて、慕う心で祈りを受けなければならないのです。伝道する時も、何が何でも祈りさえ受ければいやされて祝福されると間違って伝えて、相手が答えられるどころか、むしろつまずくようなことがあってはいけません。
時には、祈りを受ける人がその時は信仰がなかったとしても、神様がその人の善なる心をご覧になっていやしてくださる場合があります。しかし、原則は、まずみことばを聞いて悔い改め、答えられるにふさわしい信仰の器を備えるべきだということです。

2. 神の力について

信仰の五段階に至ればさまざまなしるしが伴います。しかし、このようなしるしが現れるからといって、皆が信仰の五段階なのではありません。たとえば、まだ聖められていない人でも、神様を愛して魂を愛し、火のような祈りを無数に積んでいけば、いやしの賜物や奇跡を行なう力のような、御霊の賜物が与えられたりします。
また、御霊の賜物が与えられたのではなくても、ある人について愛をもって切に祈るとき、神様が憐れみを施してくださることもあります。たとえば、主のしもべに神の力が授けられているのでもないのに、聖徒があまりにも切に信仰で祈りを依頼するなら、神様はその切なる心と純粋な信仰をご覧になって働いてくださるのです。
このようなことは、神の力が完全に臨み、不思議としるしを行なうこととは次元が違います。少なくとも信仰の四段階に入って、数えきれない祈りを積んではじめて、ある程度神の力が臨むのだし、信仰の五段階に至った時にはじめて、その力が完全に臨むのです。
信仰の五段階に入って完全に力が授けられたとすれば、先に述べた信じる者に伴う五つのしるしがいつも現れて、それ以上の不思議としるしも行えるべきです。病気のいやしだけでなく、わずらい、すなわち、生まれつきの身体障害も治せて、その他にいろいろな不思議としるしを、必要な時にはいつも行なえなければなりません。いやしの賜物では病原菌とウイルスを焼き尽くして病気を治すことはできるけれど、わずらい、すなわち、生まれた時からの身体障害は治せないし、悪霊を追い出せるのでもありません。神の力が授けられてはじめてわずらいが治せるのです。また、奇跡を行なう力が与えられたとしても、その人に完全に神の力が臨んだとは言えないのです。それでは、具体的に「神の力」とはどんなものでしょうか?

1) 神の力
人にはとうていできないことが、神の力ではどんなことでもできるのです(マルコ10:27)。このような力があれば、病気とわずらいを治すこともでき、死んだ者を生き返らせて、悪霊を追い出すこともできます。細菌やウイルスによる病気はいやしの賜物でも治せるけれど、目の見えない人、話せない人、歩けない人など、わずらいを治すには、力がなければなりません。
まだ悪をすべて捨てる前であっても、神様と魂を愛する心が熱くて、数えきれない祈りを積めば、御霊の賜物として奇跡を行なう力が与えられることはあります。しかし、この時は完全でなく、部分的に現れるだけなのです。また、賜物を与えられた人が高ぶったり、その心が変わってしまったりすると、賜物は取りあげられることもあります。
ところが、信仰の四段階以上に入ったなら、高ぶったり心が移り変わったりするはずはありません。したがって、神の力がなくなるはずもなく、祈りを積むほど、また、神様の心に似せられていくほど、思いきり力を行なうように神様が霊的な権威まで授けてくださるのです。

2) 権威
霊的な権威とは「神様が立てられた威光ある栄光の力であり、神様の秩序に従って上から授けられたもの」です。創造主の神様に属する栄光ある権威を人が持つようお許しになったのです。[ローマ人への手紙13:1]に「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」とあります。ピラトがイエス様を尋問した時も、イエス様は「もしそれが上から(すなわち、神様から)与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」と言われました。天下万物と人の子らの生死禍福をつかさどられる方はただ神様であり、スズメ一羽でも神様のお許しなしには地に落ちることはありません。このことを知っているなら、何か試練がやって来ると、人の方法を使うのではなく、神様にすがって解決の道を探すようになります。
ところで、霊的な権威は聖潔と直接つながっています。まだ聖められていない人でも、神の国を実現しようと熱い心で火のような祈りを無数に積めば、部分的ではあるが力が臨むこともあります。しかし、霊的な権威は聖められていないなら決して授けられません。子どもに鋭い刃物を握らせれば、自分と周りの人に大きい害を負わせます。同じように、全能なる神様の栄光ある権威が誰でも持てるなら、大混乱が起きるでしょう。それで、神様は少なくとも信仰の四段階に入った人、悪がなくて兄弟のためにいのちも与えられるほど愛と徳と寛容のある人に、霊的な権威を授けてくださるのです。

3) 権威が伴う神の力
信仰の五段階に入り、霊的な権威とともにもっと完全な力が授けられるようになれば、権威が伴う神の力を行なうようになります。[ルカ4:36]には「人々はみな驚いて、互いに話し合った。『今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。』」とあります。イエス様が行なわれたわざは、力だけでなく、権威が伴う神の力あるわざだったのです。
信仰の五段階に至らなくても、例外的にこのような神の力が現れる場合があります。それは、イエス様が弟子たちに按手して、権威を与えて力を行なうように命じられた場合です。これはイエス様のおこころによって、イエス様にある権威と力が弟子たちに一時的に与えられたので、権威が伴う神の力が現れたのです。
神の力とは、包括的に言う時は、悪霊を追い出して、病気やわずらいを治し、死んだ者を生き返らせたりするなど、御霊に属するすべてのわざが含まれます。しかし、厳密に言うと、力だけが現れる場合と、権威が伴う場合とに区分されます。それでは、権威とともに力が現れる時は、何が違うのでしょうか?
たとえを挙げましょう。親子の間では、息子がいくら賢くて能力が高くても、父親の言うことに従います。これは父親の権威に服従するのです。また、王の命令を持って行く使者には王の権威が授けられているので、その命令を受ける臣下がその使者より地位が高くても、その命令に服従します。
まして全能なる創造主の神様が霊的な権威を授けてくださったとすれば、すべての被造物と悪い霊どもまでも、その前に服従するしかありません。[詩篇62:11]に「力は、神のものであることを。」とあるとおり、力には創造主の神様に属する権威まで含まれているのです。
ですから、神の力が現れるとき、権威まで伴うなら、悪い霊どもや病原菌、さらに無生物までも従えることができるのです。イエス様のように風と波も静めることができ、雨と雲などに命じて天気を動かすこともできます。聖められて純金のような全き信仰を持っている人でこそ、このような権威とともに神の力を授けられることができて、信仰の五段階でも、深い次元に入るほどこのような神の力がさらに驚くほど現れるようになります。
 次回は、信仰の五段階の人々が「全家を通じて忠実である」という意味を説明します。


 

 

 
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