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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(21)

万民ニュース   第 90 号
6398
2010. 04. 25


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

今回は神様に喜ばれる信仰の五段階の特徴について語ります。

1. 神様の深い心まで推し量って従う信仰の五段階

信仰の五段階とは、具体的にどのような信仰でしょうか? この段階の人は自分の命を捨てるまで、神の御前に完全に聞き従うことができます。人としてはできない、どんなことを命じられても、それが神の御心ならば、ただ「わかりました。アーメン」と言い、自分の命をささげても、命じられたこと以上に聞き従うことです。
もちろん、信仰の四段階になっただけでも、神様のために十分に命がささげられます。しかし、信仰の四段階と五段階が同じように従って命をささげても、神様が受けられる時には差があります。その違いは心にあるのです。すなわち、父なる神様のみこころをどれほど深く推し量って従ったのか、ということです。
たとえば、お母さんが子どもたちに「お母さんが帰ってくるまでに掃除をしておきなさい」と言うと、子どもによって反応が違います。いやいやながら掃除する子がいるかと思えば、喜んで心を込めて掃除する子もいて、「お母さんが会社から帰ってくれば疲れてるだろう…。何かもっとしておくことはないだろうか?」と、お母さんの心を推し量って、言われていないことまで探してする子もいます。このような子を見ると、お母さんの心はただかわいい段階を過ぎて、たいそう感心して喜びます。
神様との関係もこれと似ています。信仰の四段階の人は心に罪と悪がなくて、神様をあまりにも愛するので、神様が何かを命じられれば条件をつけずに従おうとする心です。しかし、神様の深い心まで推し量って従うには、まだ物足りないところがあります。一方、信仰の五段階の人は、命じられたとおり聞き従うだけでなく、「なぜそんなことを命じられるのか」、神様の心と御旨を考えて、命じられたよりあふれるように従うことができます。

2. 完全に聞き従うためには、イエス様の愛と善が臨んでこそ

信仰の四段階と五段階の違いを理解するために、以前に説明した「善の段階」をもう一度思い出してみましょう。まず、誰かが皆さんを憎んで、何のわけもなく迫害して悪を行なっても、少しの悪い感情やわだかまりもなく、相手を理解して赦せるならば、信仰の四段階に入ったということです。ここからさらに高い次元の善の心になると、相手を赦すだけでなく、むしろ善なる言葉と行ないによって悪い人も感動させるようになります。信仰の五段階の入り口や、信仰の四段階の中でも深く入った時でこそ、このような行ないを現すことができます。
ところが、神様が望まれる善はこれよりもさらに高い次元の善です。自分に悪を行なった相手であっても愛して、自分の命までも犠牲にすることのできる愛と善を実践することを願われるのです。このような愛と善を心に実現してこそ、父なる神様の心を推し量って、完全に聞き従うことができるのです。イエス様が罪人のために命を渡してくださったように、神のみこころを完全に成し遂げることができるのです。
イエス様は何の罪もない神の御子なので、十字架につけられる理由がありませんでした。それでも神のみこころに従って、喜んで十字架で死なれたのです(ピリピ2:6-8)。この時、イエス様はただ神様をあまりにも愛するので、みこころに何が何でも従ったのではありませんでした。そのような従順は信仰の四段階でもできる従順です。イエス様は父なる神様の深い心と御旨がわかって、完全に聞き従って、神の摂理を成し遂げられたのです。死にかけている魂への父の愛を切々と感じられたので、イエス様は同じようにその愛の心をいだいて命を尽くし、父の御旨を成し遂げられました。残酷な十字架の苦しみにあわれながらも、死の道に向かっている魂を憐れんで、自分に釘を打つ人々のために、かえってとりなしの祈りをささげられました。また、イエス様が受ける苦しみのゆえ悲しまれる父の心を先に思われました。それで、十字架で死なれる最後の瞬間までも、イエス様は父を慰めようと、これから救われる数えきれない魂たちと父が受けられる栄光について、感謝の祈りをささげられたのです。
ですから、神様がこのようなイエス様をご覧になって、どれほど感動されたでしょうか? [ピリピ2:9-11]に「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とあります。父なる神様は私たちもイエス様のようにご自身の心を深く悟り、完全に聞き従うことを望まれます。
ところで、このような従順を実践するためには、まず神様の心と一つであるイエス様の心にならなければなりません。[ピリピ2:5]に「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とあるように、イエス様の愛と善が臨んでこそ、イエス様のように完全に聞き従うことができるのです。

3. 御霊の実が100%結ばれると信仰の五段階

信仰の五段階は、きよい心の器の中に完全な御霊の実が豊かに結ばれている状態だと言いました。御霊の実が結ばれている違いについて、たとえで説明してみましょう。
ぶどうの花が落ちたところに、初めは小さい粒のようなものができて、実が結ばれそうな兆しが見えてきます。これが信仰の三段階です。心から罪と悪を捨てるほど、小さくはあるが、御霊の実が結ばれそうな兆しが見えてくるのです。
そのうち夏になるほどぶどうの粒が大きくなって、濃い紫色に染まり始めます。ところが、ぶどうの粒が100ならば、100の粒が同時に同じ大きさと色に熟していくのではありません。同じ房の粒でも、熟していく速度がそれぞれ違って、大きさも違います。このように御霊の実が結ばれてはいるけれど、その実の中でもあるものはよく実っていて、あるものはちょっと劣っている、このような状態が信仰の四段階です。愛の実は優れているが、自制の実はちょっと弱いとか、忠実の実は優れているが、柔和は弱い面ということもあるのです。
だんだん月日が流れて、風雨に勝ち抜いてぶどうの粒一つ一つが完全に熟せば、すべてが紫色に染まり、大きくてふっくらとした中身が詰まります。このようにすべての御霊の実が100%完全に結ばれると、ついに信仰の五段階に入るのです。このような人はあらゆる分野で完ぺきな調和がとれています。主への火のように燃える熱い心がありながら、必要な時に正確に決断して行なうので、自制できる力があります。すべてのことに他人の益を求めて、相手のために命をも与えられる愛があるけれど、私的な心を全く働かさずに、正確な父の公義に合わせて従っていきます。100%聖霊の声を聞いて導かれ、神のみこころを明らかにわきまえて、完全に従うのです。あらゆる分野で神のみこころに完全に似せられたまことの子どもになり、キリストの満ち満ちた身たけにまで達したのです。

4. アブラハムに見られる信仰の四段階と五段階の違い

アブラハムの場合は、最初に神様が召された時からただ「そのとおりです。アーメン」だけ言いました。神様が「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と仰せられたとき、アブラハムはどこへ行くのか目的地も知らないで出て行きました。
ところが、この時、アブラハムは神様を信頼して心から従う信仰を持ってはいましたが、そのように命じられる神様の心を深く理解したのではなかったのです。しかし、生まれ故郷を出て長い間練られながら、神様ともっと親密に交わり続け、神様の心と御旨を正確に悟るようになりました。それで、人としては耐えがたい大きい試みにあった時も、全き信仰の行ないで神様に喜ばれることができました。
その試みとは、自分のひとり子イサクを神様に全焼のいけにえとしてささげることでした。これは肉の思いを働かせると、とうてい聞き従えないことです。イサクは百歳になって生んだ大切な息子でした。このようにかわいい息子を動物のようにほふって部分に切り分け、火に焼かなければならないのです。しかもイサクは神様が約束された約束の種です。このような時、自分なりに信仰があるという人でも、「神様が確かにイサクによって後を継ぐようにすると約束されたのに、なぜその子を殺しなさいと言われるのだろうか?」と疑問を持つかもしれません。
しかし、アブラハムはこの試みをやすやすと通り抜けたので、信仰の五段階に入りました。[ヘブル11:17-19]に「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」とあるとおりです。
この時、アブラハムは神様を愛するので、何も考えずに従ってイサクをささげただけではありません。神様の深い心までも悟れたので、イサクを全焼のいけにえとしてささげても、全能の神様がよみがえらせることもできて、それによって神様の摂理を成し遂げられることを悟って、完全に聞き従ったのです。
まさにこのような信仰を認められた時点から、神様はアブラハムをこの上なく喜ばれ、「神の友」とまで呼んでくださいました。みことばに従って命までささげられるだけでなく、神様の深い心を悟るアブラハムだったので、信仰の父、神の友と呼ばれることができたのです。
 次回は続いて信仰の五段階について説明します。


 

 

 
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