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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(15)

万民ニュース   第 82 号
6979
2009. 12. 27


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(第三ヨハネ1:2)


1. たましいに幸いを得ている祝福を受ける信仰の四段階

人が聖霊を受けて信仰を持てば、信仰の一段階、すなわち、救われるための信仰になります。そして、みことばを聞いて学んで、熱心に行なおうと努力し始めれば、信仰の二段階に入ります。信仰の二段階では、時にはみことばどおり生きられなくて、真理に逆らうことを行なう時もありますが、三段階では十分にみことばどおり生きられるので、それ以上真理に逆らうことはしません。しかし、まだ心にある罪の性質までみな捨てたのではありません。心に残った罪の性質まで捨てて聖められれば、この時からは信仰の四段階になります。
このような段階に至ると、神様をこの上なく愛するので、何の条件もつけずに、世のどんなものよりも主を愛するようになります。また、信仰の四段階に入れば、たましいに幸いを得ていて、神様の前で御霊の人だと認められるようになります。[ヨハネの手紙第三2節]に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあるように、御霊の人はすべての点でも幸いを得、また健康である祝福を受けるようになります。

2. 信仰の四段階に臨む祝福

まず健康の祝福を受けて、病気や事故とかかわりなく生きるだけでなく、求めるものは何でも神様から頂くことができ、ほかの人のために祈る時もいやしのみわざが現れる、と前回で言いました。また、物質の祝福も豊かに臨むようになります。
[申命記28:1-14]にある約束のみことばも、まさに御霊の歩みに入った人に臨む祝福なのです。[2-6節]に「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」とあります。
私は主を受け入れる前、長い間の病気であまりにも多くの借金を負っていました。ところが、主を受け入れた後、特に御霊の歩みに入った時から、神様は水のように祝福を注いでくださって、数か月であれほど多かった借金がすべて返せるようにしてくださいました。
[ルカ6:38]に「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」とあります。神様は必ず蒔いたとおり祝福を与えてくださいます。御霊の歩みに入る前も、信仰で蒔いて求める時は、二倍以上の祝福を下さるのです。ところが、信仰の四段階、すなわち、御霊の歩みに入れば、ただ二倍以上に刈り取るのではありません。
[マタイの福音書13:23]に「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」とありますが、これは霊的な祝福だけでなく、物質の祝福にも当たるみことばです。心が良い地に変わった人、すなわち、御霊の歩みに入った人は、一つを蒔いても三十倍以上に刈り取ります。一歩進んで信仰の五段階、すなわち、さらに完全に御霊の歩みに入ると、六十倍も、百倍も刈り取るようになるのです。肉で見ては祝福されるような道がなく、特別な技術も、才能もない人でも、御霊の歩みに入りさえすれば、祝福が臨む道を神様があらかじめ備えて導いていかれるのです。
また、御霊の人の祝福は、その人とともにいる人々にまで臨むようになります。ちょうどアブラハムと一緒に住んでいたロトが祝福されて、その財産が非常に多くなったようなものです。[創世記12:3]に神様がアブラハムに「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と言われました。もちろん、祝福権と呪い権が完全に臨むには、さらに完全に御霊の歩みに入らなければなりません。しかし、信仰の四段階、御霊の歩みに入るだけでも、ともにいる人々に祝福が臨むのです。しかし、いくら御霊の人とともにいても、その人自身が神様の前にふさわしくなければ、祝福は臨めないのが神の公義だということも、覚えておかなければなりません。

次に、皆さんが御霊の歩みに入れば、伝道することもやさしくなり、家庭もすぐ福音化されます。[使徒の働き16:31]に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とあります。ひとりがクリスチャンらしく生きれば、それによって本人とその家族まで救われるということです。
[使徒の働き10章]に、コルネリオが親族や親しい友人たちまで呼び集めてペテロを招くと、そこに集まったすべての人が福音を聞いて、聖霊を受けるという恵みを体験したことが記されています。このように、コルネリオのひと言にその親族と友人までみな集まって救われたことを見れば、コルネリオがふだんどんな生き方をしていたのか、十分に察することができます。皆さんがコルネリオのように敬虔に生きるなら、家族と友だちなどにどんなことを言っても信頼されるようになって、その言葉にも説得力があります。
ですから、家族の救いのために祈っている人は、自分がどれほど仕えと犠牲の手本を見せたかをまず顧みますように。まだ御霊の歩みに完全には入れなかったとしても、皆さんが御霊の人に変えられたほど、それで周りに恵みと徳を与えたほど、家族が信仰を持つように変えられているのです。ついに皆さんが御霊の歩みにさらに完全に入れば、この時はそれほど霊的な権勢が伴うので、誰に伝道しても敵である悪魔が妨げられなくなって、相手ももっと簡単に心の扉を開くのです。

次に、御霊の歩みに入れば、聖霊に正確に働きかけられて完全に聞き従うので、何をしても栄える道だけに導かれるようになります。
もちろん、信仰の三段階の岩の上に立つだけも、真理を悟ってみことばどおり歩んでいく段階なので、聖霊にも働きかけられ、たいていのことは栄えます。しかし、心そのものが真理で満たされて、全幅の信頼を神様に寄せてゆだねる段階にはまだ至っていません。この時は、聖霊に働きかけられますが、肉の思いが残っている分、100パーセント働きかけられることはできなくて、時々自分でもわからないことがあります。
たとえば、聖霊に働きかけられてある事を始めたのに、難関にぶつかれば、「私は本当に聖霊に働きかけられたのだろうか? でなければ、私の思いから出たことではないのか?」という疑問が起こることもあるのです。一方、信仰の四段階は心そのものが完全に真理に変えられて、みことばが完全に生活化されています。努力して真理にかなうよう行なう次元でなく、心そのものが真理に変えられたので、行ないも自然に真理にふさわしく出てくる段階です。
この時は、聖霊にも正確に働きかけられて、それに完全に聞き従うだけです。また、ある事をやり遂げるために一度信じて祈ったら、その祈りが答えられる時まで、揺れ動かない信仰をもって耐え忍びます。このようにただ聞き従っていく人ならば、神様が正確につかさどっていかれるだけでなく、知恵や悟りが欠けている時はそれらを下さいます。
御霊の人が完全に神様にゆだねて行なう時は、ひょっとして一瞬のミスで神のみこころとは違った道に行っても守ってくださり、行く手に悪者が掘っておいた落とし穴があっても、神様が直接介入して道を戻るようにされたりして、すべてのことを働かせて益としてくださいます。ですから、いつも勝利して栄光だけ帰すようになり、[申命記28:13]に「主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」という約束のとおり、どこに行っても認められるようになります。
ダニエルと三人の友だちは、異邦人の国に捕虜として捕えられていても、完全に神の戒めを守ると、神様がすばらしい知恵と悟りを下さったので、王に認められるようにされ、国でも指導者になれるように高めてくださったことが見られます。しかも、はかりごとにかかって火の燃える炉の中に投げ込まれた時も、頭の毛も焦げないように守ってくださったのです。

御霊の歩みに入った人が受ける祝福はすべて説明できませんが、この地上で受けるより大きい祝福は、永遠の天国で受けるようになる栄光です。天国で、信仰の三段階の人が入る二天層の暮らしと信仰の四段階の人が入る三天層の暮らしは「天と地の差」というほど、栄光と幸せの次元が違います。何よりも信仰の三段階以下の人は、天国に入っても主の御顔を仰ぐことができません。
[ヘブル人への手紙12:14]に「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とあります。すべての人との平和と聖められることを追い求めるには、信仰の四段階には至らなければなりません。心にある罪をすべて捨てられなくて、御霊の歩みに入れなければ、救われて天国に入ることはできても、愛する主と神様の御顔さえ永遠に仰ぐことができません。栄光の光のゆえに、あえて目を上げて見ることができないのです。
それで、新しいエルサレムに住む人以外は、特別にそこに招待されたとしても、そのままでは入れません。天国では場所によって霊のからだから出る光が違うので、特別に新しいエルサレムの宴会に招待されたとしても、服を借りて着なければなりません。しかし、着替えたとしても、あまりにも申し訳なくて、あえて栄光に輝く主の御顔をまともに仰ぐことができません。ちょうど昔、皇帝の前に出て行った民が恐れ多くて頭を上げられなかったようです。
しかし、三天層の人々は、全家に忠実であるには少し欠けていたとしても、心が聖められたので、主の御顔を仰ぎ見ることができます。この一つだけ考えてみても、聖められた人とそうでない人の栄光がどれほど違うかがすぐわかります。そのほかにも三天層に入ればどんな祝福を受けるのかについては、次に続いて語ります。


 

 

 
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