光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
信仰の量り(8)
万民ニュース
第 72 号
7375
2009. 04. 26
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)
1. みことばどおり行なえる信仰の三段階
信仰の一段階は、聖霊を受けて救われた段階で、信仰の二段階はみことばどおり行なおうと努力する段階だと言いました。二段階では、みことばを知って、学んで行なおうと努力はしますが、時には守ったり、時にはみことばにそむいて肉の行ないをしたりもします。しかし、転んで倒れても、再び起きて歩いていくように、みことばどおり行なおうと努力し続けるならば、信仰が成長して、ますますみことばどおり行なえるようになります。それで、みことばどおり行なえるようになれば、それが信仰の三段階に上がったということです。
ですから、信仰の三段階は「行なえる信仰」と言います。二段階では肉の行ないをする時もありますが、三段階になれば、当然肉の行ないはもうしないのです。三段階では、みことばを無理に守り行なうのではなく、神様のみこころを悟ったので、喜んで行なえるのです。
たとえば、主日を守ることや十分の一献金についても、ただ知っているだけと悟ることは全く違います。主日を守ることは、神様の霊的な主権を認めて、私たちの霊と魂が神様に属していることを証しする行ないです。神の子どもたちが主日を聖なるものとすれば、神様が一週間、災いや病気、事故から守って、魂に幸いを得ているように導いてくださいます。また、十分の一献金をすることは、神様の物的な主権を認めて、私たちのすべての持ち物が神様から来たことを認める行ないです。人がいくら苦労しても、神様が与えてくださらなければ、どんな実も刈り取れません。ですから、私たちのすべての収入は、結局神様のものです。しかし、そのうち十分の一を神様にささげて、残りは自由に使うように神様が許されたのです。十分の一献金を完全にすると、神様が物質の損失をこうむらないように守って、宝物倉があふれるばかりに祝福しようと約束されました(マラキ3:10)。
このように「主日を守って完全な十分の一献金をすると、魂に幸いを得て、病気と試練や患難が離れて、物質の祝福を受けます」と言っても、相変わらず完全に行なえない場合があります。頭で聞いて知っているだけでなく、心から悟ってこそ行なえるのです。みことばを聞きはしたけれど行なわない人は、心から悟れないので行なわないのです。このように悟って行なう三段階と、悟れない二段階では、明らかな違いがあります。
しかし、信仰の二段階では、悟れなかったとしても、ひとまず聞いて知っているので、行なおうと努力はしていきます。祈って行なおうと努力するならば、ある瞬間、神様が上から恵みを与えれられ、心から悟れるようにしてくださいます。それが恵みになって力になり、心から信じられるようになり、その後からは十分に行なえるようになるのです。
赤ちゃんが歩くようになる過程を見てみましょう。初めは寝て手足を動かしています。次にはいはいをして、その後立てるようになります。そのように努力する過程でますます脚に力がついて、ついに歩いて走れるようになります。
信仰も同じです。みことばを聞くだけで、行なえる恵みと力が与えられるのではありません。祈りながら行なおうと努力してこそ、神様がその心をご覧になって、悟れるように恵みを下さるのです。このように努力したことが一つ、二つと行なえる力になって、信仰の確信が与えられれば、みことばどおり行なうことがもう負担に感じられません。まるで日常生活のように、みことばどおり行なうことが自然に体になじんで、安定した信仰生活ができるようになります。目に見える肉の行ないはほとんどしないので、次は肉的なことを捨てて、心の罪の性質まで引き抜いていく段階に入ります。みことばが完全に心に臨んで、悪の大きい根まで完全に引き抜かれる時まで、続いて信仰の戦いを勇敢に戦っていくのです。
みことばどおり行なおうと努力していくと、心に悟りが来ます。悟れば楽に行なえると言いました。たとえば、[テサロニケ人への手紙第一5:16-18]に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。このみことばの意味を心から悟れない人は、苦しみにあったとき、喜んで感謝しようと努力はしますが、形式的にだけします。心では相変わらず「私はこんなにつらいのに、感謝することでないのに、どう感謝できるんだろうか」と思うからです。喜ぼうと努力はしてみて、結局我慢できなくて、恨んでつぶやいたりします。
それでも、何としてでも聞き従うために努力していくと、ある瞬間、祈っているうちに神様のみこころが悟れ始めます。「ほんのつかの間の苦しみがあっても、永遠の天国に行ける望みがあるから、どんなに感謝だろうか。私のような罪人が赦されて救われるようになったし、信じて求めれば、答えられて栄光を帰すのだから、どんなにうれしいだろうか」と、感謝の条件が悟れます。
また、みことばどおり神様に感謝のいけにえをささげれば、試練や患難が退くことがますます信じられるようになります。みことばどおり喜んで感謝することは、神様に属する光の行ないです。試練や患難は、闇である敵である悪魔・サタンがもたらすものです。まっ暗な部屋に明かりをつけて光が入ってくれば闇は退くように、心から感謝して喜ぶとき、その霊的な光によって試練や患難が離れて、祝福が臨むのです。
こういうことを心から悟れば、どんな困難にあっても、信仰で喜んで感謝できます。すると、実際に神様の恵みと力が与えられて、試練や患難が退くことを体験するようになります。このような体験によって心にさらに確かな信仰が与えられ、次には試練がやって来ても、もっと喜んで感謝しやすく、勝利できるのです。目の前の現実がいくら見通しがきかなくても、みことばの意味を心から悟りさえすれば、目に見えない祝福を信仰で望んで行なえるのです。
ところで、うわべでみことばどおり行なっても、皆が信仰の三段階とは言えません。たとえば、主日礼拝を休まない人でも、その人がどんな心で礼拝をささげるのかによって信仰の水準が違います。ほかの人の目を気にしたり、主日を犯せば災いにあうかと怖れて礼拝に出てきたり、礼拝に来たとしても、居眠りしたり雑念にふけったりしながらささげたなら、信仰の三段階とは言えないのです。
また、信仰には移り変わりもあってはなりません。蒔いて行なえば祝福されると言われたから、蒔いて行ないはしたものの、思ったほど早く祝福が来ないから、行なったことを後悔したり、以前の姿へ帰ってしまったりする場合もあります。こういう人は、心から悟って行なえる信仰の段階に達したと言えないのです。
ですから、信仰は一つ、二つの目に見える行ないだけを見て、何段階だと言えるものではありません。その人の心に神様のみこころがどれほど悟れて信じられるのかで、見分けられるのです。
2. 信仰の三段階の入り口と信仰の岩
信仰の三段階に入っても、初めはまだ心に葛藤があります。神様のみこころを悟って聞き従いはしましたが、心には残っている罪の性質があるので、二つの心が相変わらず戦うのです。良い心に従おうとする御霊による思いと、悪い心に従おうとする肉の思いが戦うのです。
先に説明したとおり、苦しみにあうと、信仰の二段階は喜んで感謝しようと努力はしますが、結局勝てなくて、不平をぶちまけてしまったりします。しかし、信仰の三段階は苦しみの中でも十分に感謝して喜べます。
ところが、三段階だからといって、皆が100%、完全に喜んで感謝できるのではありません。三段階の中でも入り口ならば、苦しみにあう瞬間、「本当につらい」という肉の思いが働いて、気落ちして、聖霊に満たされなくなることもあります。けれども、すぐに聖霊の声を聞いて、「神様は生きておられるのに、私がなぜ気を落とすのだろうか」と、自分の心が真理に堅く立つようにするのです。そして、もっと完全に喜んで感謝するために神を呼んで祈り、恵みと力を受ければ、もっと感謝して喜べるようになります。
そうするうちに、三段階の終わりになれば、もう肉の思いがあまり働きません。苦しみに突然あっても、気を落としたり、不平を言おうとしたりするよりは、神様に頼って喜んで感謝しようとします。一瞬、つらいという思いがかすめたとしても、直ちにその思いを追い出して、感謝と喜びに心を変えることができます。
[マタイの福音書7:24-25]に「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」とあります。[コリント人への手紙第一10:4]には「その岩とはキリストです。」とあります。試練や患難に信仰が揺れ動かないで、みことばどおり完全に行なう信仰になれば、岩であるイエス・キリストの上に堅く建てられたということです。
ところが、同じ信仰の段階であっても、各人の信仰は違います。それぞれの段階を100として各人の信仰を量ってみると、10%の人もいるし、100%近くになって次の段階に近づいている人もいます。このように量ると、信仰の三段階でも60%以上になれば、みことばどおり行なうことが、もうつらく感じられません。ですから、岩の上に建てられた信仰になったと言えるのです。そして、信仰の三段階でも70から80%になれば、岩の上にしっかり建てられたということです。この時は、みことばどおり行なうことが、まるで体になじんだ習慣のように、自然に出てくるようになります。ここから一歩進んで、どんな状況でも一瞬の肉の思いさえ働かさないで、完全に喜んで感謝できるようになれば、ついに霊の信仰、すなわち、信仰の四段階に入ります。
たとえば、同僚がひどく礼儀に反することをしたとき、信仰の二段階では気を悪くします。真理のみことばを知っているので、感情をしずめて仕えようと努力はしてみるけれど、心の中ではいろいろな思いでひどくわだかまりを持ったり、耐えられない時は癇癪を起こしてしまったりします。
三段階ではそのように平和を破ることはありません。「それなりの事情があるのだろう」と、良く思おうと努力しながら、相手が願うとおり仕えます。ところが、まだ三段階の入り口では、完全に心に真理が臨んだのではないので、一瞬気を悪くしたりもします。そんな思いが度々浮かんだとしても、「そうではない」とまた思いを変えて、良い心をいだこうとするのです。しかし、岩の上に堅く建てられた段階になれば、一瞬は気を悪くしても、直ちに御霊による思いに変えることができて、安らかな心で平和を追い求め、相手に仕えることができます。そのような一瞬の思いさえなく、完全に死ぬ一粒の麦のように相手に仕えるならば、この時は信仰の四段階、御霊の人になるのです。
そうなれば、皆さんの人生は肉に属する世界から御霊に属する世界に移されるので、栄えなかったことが栄えるようになり、不可能が可能に変わる神様のみわざを、いつも体験して生きていくようになります。このような次元を切に慕って、すみやかに罪を捨てて聖められ、おとなの信仰になりますよう、主の御名によって祈ります。
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