光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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信仰の量り(4)
万民ニュース
第 68 号
7473
2008. 12. 07
「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」(第一ヨハネ2:12-14)
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)
今回は聖書のたとえを見ながら、信仰の段階について具体的に調べます。
1. 各人の信仰によって与えられる天国の場所と栄光
人は、良い環境で生きるためにあらゆる労苦を惜しみません。しかし、短い人生が終われば、必ずさばきを受けて、天国か地獄に行きます。地獄に行っていくら後悔しても、もう救われる機会はありません。また、救われて天国に行っても、天国で受ける場所と栄光はそれぞれ違うのです。
<コリント人への手紙第一15:41>に「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。」とあります。これは、天国で受ける場所と栄光がそれぞれ違うことを意味しています。ある人は太陽のように輝く栄光の座に至るし、あるいは月の栄光、星の栄光を受ける人もいます。星の明るさがそれぞれ違うように、星の栄光といっても、個々の星によって栄光が違います。
したがって、皆さんがどれほど神のみことばどおり生きたのか、どれほど罪を捨てて清い心に変えられて、どれほど神の国のために忠実であったのかによって、天国の場所と栄光が決められるのです。これは一度決められたら、永遠に変わらないのです。
ある人は自分の信仰を過大評価したりします。信仰生活が長くて、多くの務めがあって、みことばをたくさん知っていて教える立場にあるならば、さらにそのような錯覚をしがちです。それで、<マタイの福音書7:22-23>には「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」とあるのですです
自分では熱心に神様の働きもして、信仰が大きいと思っていたのに、いざさばきの時になると、主が「あなたは極めて小さい信仰だったんだなあ」と言われたら、どれほど心苦しいでしょうか。したがって、いつも自分の信仰を顧みて、より大きい信仰を持つために努力しなければならないのです。
2. 信仰の段階についての聖書のみことば
<ローマ人への手紙12:3後半節>に「いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあり、人によって信仰が違うことがわかります。信仰がとても大きい人がいるかと思えば、からし種ほどの小さい信仰の人もいます。聖書では、このように信仰が違うことをいろいろなたとえで説明しています。
たとえば、<ヨハネの手紙第一2:12-14>では、信仰の段階を人の成長過程にたとえています。「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。ここで「子ども」「小さい者」「若い者」「父」とは、年齢ではなく信仰の段階を意味しています。
一番目に「子どもの信仰」について「主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」とあります。これは、罪が赦されて救われた信仰です。まるで生まれたばかりの赤ちゃんのようです。まだ真理もよく知らなくて、真理のとおり生きようと努力することもできないけれど、それでも福音を聞いて主を受け入れたので、聖霊を受けて救われる初心の者の信仰です。
二番目に「小さい者の信仰」については「御父を知ったからです。」と書いてあります。「御父を知る」とは、神様が救われた聖徒の御父であることを知っていることです。ですから、祈る時も神様のことを当然「父よ」と呼びます。また、父のみことばを学ぼうとして、みことばどおり聞き従おうとします。しかし、小さい者の信仰では、みことばに従う時もあるけれど、従わない時もあって、試練がやって来れば恨んだりつぶやいたり、気を落としたりもします。
三番目に「若い者の信仰」については「強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」と書かれています。「神のみことばがそのうちにとどまる」とは、そのみことばを完全に守り行なうという意味です。神のみことばが心にとどまっているので、天国に望みを置き、世を見つめないで、悪い者、すなわち、敵である悪魔・サタンに惑わされないで、みことばで退けられるのです。この段階では、どんな試練にあっても揺らぎません。絶えず祈りながら感謝して賛美して、試練に勝ち抜きます。
最後に、最も成長した「父の信仰」とは「初めからおられる方を知っている」信仰です。「初めからおられる方」とは、もちろん神様のことですが、小さい者の信仰で神様を知っているのとは全く違います。まだ小さい子どもは、親を知っているけれど、親の故郷がどこなのか、どんな心と性分を持っているのか具体的には知りません。子どもの水準で理解するだけです。
しかし、父の信仰は、偉大な創造主の神様の深み、その根源までも知ることができる信仰です。たとえばモーセは、天地創造など数え切れない奥義の啓示を受けて、モーセ五書を記しました。アブラハムは、神様の深いお心まで推し量り、神様に喜ばれる行ないを見せたので「神の友」と認められました。このような信仰が「初めからおられる方を知っている」段階です。
皆さんの信仰はどの段階に当たるでしょうか? 子どもの信仰にいる方は、こまめに神のみことばを学んで従い、小さい者の信仰に育たなければなりません。小さい者の信仰にいる方も、すみやかに若い者の信仰にならなければなりません。さらに進んで、神様と明らかに交わる父の信仰を切に慕って、その深い段階に至らなければなりません。
また<エゼキエル書47章>では、水の深さによって信仰の段階を説明しています。エゼキエルが幻で見ると、水が神殿の敷居の下から神殿を巡って、神殿の外にまで流れ出ていました。<エゼキエル47:3-5>に「その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。」とあります。
ここで「水」とは、神のみことばを意味しています。この場面は、聖殿から出た神のみことばが世に広がっていくことを見せられたのであり、神様がさばかれるとき、各人の信仰を測って一寸の誤差もない判決が下されることを表しています。たとえば「水が足首まであった」とは、やっと救われる幼い信仰です。また「泳げるほどの水となり」とは、完全にみことばの中にとどまる父の信仰のことを言っているのです。
<コリント人への手紙第一3:12-15>にも、信仰の段階についてのみことばがあります。「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」とあります。
ここで「土台」とは、イエス・キリストのことです。どの人もイエス・キリストという土台の上に信仰を積み重ねていきますが、この時、「働き」すなわち、その信仰の行ないをどれほど心を尽くして積んだのかにより、各人が受ける報いが変わるのです。
「各人の働きが明瞭になる時」とは、次の三つです。
一番目は、自分の務めが評価される時です。年度末になれば、これまでどれほど信仰で使命をよく果たしたのか、各人の実を評価します。それで、よく果たした人は賞を受けますが、果たさなかった人は叱責されたり、次は務めが受けられなかったりするのです。
二番目に、火のような試練がやって来る時です。ふだんは熱心で信仰が大きいように見えた人も、試練がやって来れば自分にまことの信仰がないことを発見することがあります。
三番目に、終わりの日、神様の前で審判を受ける時です。神様の審判台の前では、すべての人の行ないが一つも隠さず明らかにされて、善であれ悪であれ、報いと刑罰を受けるようになります。
金のような信仰を持った人は、火のような試練の時も全く揺るぎません。感謝と喜びで試練に打ち勝った後に、前よりもっと大きい祝福を受けるようになります。しかし、銀、宝石、木、草になるほど、試練に打ち勝つ力が弱くなります。
銀も、火の中で焼けてなくなることはありませんが、金よりは価値が劣るのです。宝石は、火に焼けてなくならなくても、壊れれば価値がひどく落ちます。それでも救われる信仰はあるので、信仰の行ないに応じて天国で受ける報いもあります。
木と草は火に入れば焼けてしまいます。これは、かろうじて救われる信仰はあるけれど、各人の働きが火に焼けてなくなるので、天国で受ける報いはないことを意味しています。
しかもわらのような信仰ならば、働きが火に焼けて報いがないだけでなく、救いさえも受けられないのです。うわべでは教会に出席して信仰生活をしていますが、その心には救われるほどの信仰がないのが、建物をわらで建てた場合です。
皆さんの中には、万が一にもいのちのないわらのような信仰で、救いさえ受けられない方が決していませんように。草や木のような信仰でも足りないし、宝石や銀のような段階に満足してもいけません。金のような信仰を持ち、神様が各人の働きを試される終わりの日に、大きい栄光と報いを受けられますように、私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。
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