光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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あなたのみことばはともしび、光です_ 「
光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
信仰の量り(1)
万民ニュース
第 65 号
7422
2008. 08. 31
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル人への手紙11:1-3)
1. 神様が望まれる信仰は霊の信仰
信仰は何にも比べられない宝の中の宝であり、世のすべての問題を解決する鍵です。人の力と能力ではできないどんなことでも、全知全能の創造主の神様にはおできになります。聖書には、太陽と月さえも止めたり、葦の海を分けたり、戦争で勝利したり、死んだ人を生かしたりなど、不可能が可能に変えられた記述が数え切れないほどあります。このように神様は全知全能なので、病気とわずらいのいやしも、家庭と事業の問題の解決も、信仰さえあるなら難しくありません。ここで重要なのは、必ずまことの信仰がなければならない、ということです。
今日、教会に通う人はたくさんいますが、その中には信仰の意味さえよく知らない人々が多いのです。「神様を信じています」とは言っても、救いの確信もなかったり、世の人と同じように、病気とさまざまな問題で苦しみ、試練や患難の中で生きていたり、祈っても答えられない人が多いのです。<マルコの福音書9:23>に「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とあるので、信仰で祈ったなら、必ず祈りの答えを受けなければなりません。「信じます」と言って祈ったのに答えられないなら、この時は自分の信仰がまことの信仰であるのか、顧みなければなりません。
<詩篇37:4>に「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあります。また、<ヘブル人への手紙11:6>には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とあります。皆さんが信仰によって神様に喜ばれるなら、神様は皆さんの願いを何でもかなえてくださいます。神様に喜ばれる方法は、まさに信仰です。
この時の信仰は、神様に認められる「まことの信仰」でなければなりません。多くの人が自分では「信じます」と言いながらも、神様のみわざを体験することができないのは、その信仰が「まことの信仰」でないからです。信仰にも、神様に認められて答えられるまことの信仰、すなわち「霊の信仰」があり、神様が認められない「肉の信仰」があるのです。
2. 肉の信仰とは
1) 自分の知識と思いに一致することだけ信じる信仰
このような信仰は救いや信仰の問題と関係がなく、世の人も持てる信仰です。たとえば、白いおしぼりを手に持って「このおしぼりは白いです」と言ったとき、確かに白いと認めた人は誰でもこの言葉を信じます。自分が生まれてから今まで学んで受け入れた知識と一致するからです。
ところが、私たちがこれまで正しいと習った知識がみな真理ではないのです。世ではいくら真理と思われていても、歳月が過ぎれば変わることがあまりにも多いし、国と民族、または個人によって、真理と思う知識や、正しいと思う価値の基準がずいぶん違います。たとえば、昔は、地球は丸くなくて平たい、太陽が地球を回ると学びました。その当時の人々はこれが真理だと思いましたが、今はこれを真理と信じる人はいません。これと同じように、今まで皆さんが学んだ知識の中でも、あまりにも多くの部分が真理ではないのです。
人は、幼い頃から真理でないものを真理だと教わってきたなら、それが真理だと堅く信じてしまいます。誰かが真理を教えても、自分の持っている知識と合わなければ、むしろその真理が真理ではないと思うようになります。今日、福音を聞いても創造主の神様が信じられない数多くの人々が、このケースに当たります。幼い時から「進化論」という偽りの理論を「真理」だと学んできたので、真理である「創造」を教えても、信じないのです。
進化論は決して真理ではなく、人の思いの中で編み出した誤った理論です。いくら数千万年、数億万年が過ぎても、魚が陸の動物にはなれないし、類人猿が人になることもできません。しかし、それが可能だと学んだ人々は、進化論は真理だと堅く信じるのです。ですから「創造主の神様がみことばで天地を創造された」と言うと、真理から外れた話だと思うのです。
そうかと思えば、ある人々は「全能の神様を信じます」と言いながら、聖書を全面的に信じるのではなく、自分の知識と理論に合う部分だけを信じます。しかし、世の知識と理論に合わせようとすれば、聖書には信じられない部分があまりにも多くあります。世では、何かの材料があってはじめて完成品が出て来るのに、聖書では「何もない無の状態から、神様のみことばで天地万物が創造された」と書いてあるので、信じられません。
また、人の力ではとうてい不可能な、神の力によるみわざも、納得しにくいのです。ですから、不思議としるしについて記された箇所を読めば、それが実際にあったことでなく、象徴かたとえだと思ったりします。また、「ペテロが水の上を歩いた」と言えば、水の浅いところを歩いたのだと解釈したりもします。「薬を飲んで、手術して病気が治った」と言うと信じられますが、「ただ祈りを受けただけでいやされた」と言うと、何かほかの理由があるのでは、と疑います。
しかし、こういう信仰は神様とは関係がないし、救われる霊の信仰ではありません。まことの信仰とは、自分の思いと知識に関係なく、聖書のみことば全体が神様のみことばであり、絶対的な真理である、と信じることです。
2) 変わる信仰
ある人は心の願いに答えられるために、熱心に祈って礼拝して、満たされた信仰生活をしてみますが、心に願ったとおりに答えがすみやかに現れなければ、だんだん疑い始めます。「神様は本当に生きておられるのだろうか。私が祈ると本当にお聞きになるのだろうか」と疑いが生じると、だんだん恵みが落ちて、過去に信仰で答えられたことや、周りの人々が答えられた証しも、「偶然だったのでは」と疑うようになります。
<ヤコブの手紙1:6-7>に「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」とあります。このように変わる信仰は、答えられるまことの信仰とは言えないのです。<マルコの福音書11:24>に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とあるように、求めるものは何でも、これから「受ける」と信じるのではなく、すでに「受けた」と信じなければなりません。
例として、病気の問題もそうです。<ペテロの手紙第一2:24>に「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあります。約二千年前にイエス様が苦しみを受けられたので、私たちのすべての罪と悪と呪いを贖われた。これを信じる私たちはすでにいやされたのです。ですから、信仰で祈りを受けたなら、もうつらく苦しそうな姿でなく、希望に満ちて喜んで感謝する姿になります。また、すぐに目に見える証拠がなくても、答えられたという信仰が変わらないとき、本当に答えられるまことの信仰だと認められます。
3) 行ないのない信仰
神様のみことばを知っていることと信じることは別です。神様のみことばは頭ではなく、心で信じられなければなりません。その時は、みことばどおり聞き従う行ないが伴うようになります。たとえば、神様は「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる」と言われました。これは健康や物質、すべてのことに当てはまる霊の世界の法則です。
旧約聖書のツァレファテのやもめは、神様の命令に信仰で従って、長い日照りの中で、最後に残った一食の糧で預言者エリヤを養いました。人の思いを働かせばとうていあげられない、命のような糧ですが、神様のみことばを信じたので命令に従いました。その結果、日照りが終る時まで「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」という祝福を受けました。(第一列王17章)。
ところが、肉の信仰を持った人々は、こういうみことばを聞いて頭では知っていますが、いざ難しい現実にあうなら、行なえないのです。今すぐの生活費が足りないと思えば、十分の一献金を完全にささげられなかったり、各種の献金をささげることも惜しむようになります。神様に蒔けば祝福されると本当に信じるなら、惜しむはずがありませんが、頭でだけ知っているので、行ないが伴わないのです。
病気の問題もそうです。本当に神様が全知全能であることを信じるなら、何かの病気にかかったとき、どうして世の方法を使うでしょうか? 神様の力を頭では知っているけれど、心では信じられないので、世の方法に頼るのです。このように信仰のない姿をご覧になるとき、神様はどんなにもどかしく思われるでしょうか? アサ王が病気にかかったとき、主を求めることをしないで、医者を求めて死んだという記述でよくわかります(第二歴代誌16:12-13)。
そのほかのみことばも同じです。聖書には「いつも喜んでいなさい」「すべての事について、感謝しなさい」「絶えず祈りなさい」「あなたの敵も愛しなさい」「仕えなさい」「すべての人と平和をつくりなさい」と書かれています。このようなみことばをすらすらと暗誦しても、頭で知っているだけで行なえない人は、相変らず肉の信仰を持っているのであり、神様のみわざを体験することもできません。
<ヤコブの手紙2:26>に「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」とあり、行ないのない信仰は「死んだ信仰」と記されています。死んだ信仰では、答えも祝福も受けられないだけでなく、まかり間違えば救われさえしないことを覚えて、必ず行ないのある信仰に変えられなければなりません。
3. 霊の信仰とは
「霊の信仰」とは、「肉の信仰」と反対に、自分が習った知識や思いに合わなくても、神様のみことばならすべて信じられる信仰であり、一度信じたことは変わらずに信じて、みことばどおり聞き従って行なう信仰です。このような霊の信仰があれば、無から有を創造することもできるし、家庭、職場、事業の問題や健康の問題など、どんな心の願いにも答えられるし、神の力を受けて神の国を実現することもできます。
ところが、霊の信仰を持っているといっても、各人の信仰はすべて違います。霊の信仰が大きい人は、願いを心にいだくだけでも答えられるかと思えば、信仰が薄い人は、同じ祈りの課題でも、何日も祈らなければならない場合もあります。
もし人が霊の信仰を自ら持てるならば、誰でも持ちたいと願うでしょう。しかし、霊の信仰は、人が願うからといって思いのままに持てるのではなく、神様が与えてくださらなければなりません。それなら、どうすれば霊の信仰が受けられるでしょうか? 霊の信仰を受ける方法だけわかれば、どんな心の願いを持っていても、答えと祝福の道がパッと開かれるのです。
霊の信仰を受ける方法については、次の号に続いて説明いたします。
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