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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

十字架の道シリーズ(15) - 十字架の処刑(2)

万民ニュース   第 52 号
8013
2007. 5. 27


<目次>

「十字架の処刑」
1. イエス様の着物に含まれた神様の摂理
2. イエス様が手足を釘づけられた理由と十字架につけられたふたりの強盗についての記録の差
3. イエス様のすねが折られなかった摂理とイエス様が血と水を注ぎ出された霊的な意味

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。・・・主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53:5-6)

イエス様が十字架にかかって処刑された摂理が具体的にわかってこそ、神様の愛を深く悟って熱い信仰生活ができます。それで今回は、イエス様が手足を釘づけられた理由と、十字架につけられたふたりの強盗についての記録について伝えます。

1. イエス様が手足を釘づけられた理由

一般的な死刑の方法は肉体の苦しみが比較的短い時間で終わりますが、十字架刑は長時間にわたる深刻な苦しみを与えます。大きい木の十字架の上に両手と両足を釘づけにした後で、その十字架を立てれば、体重が下へ下がって、手足に釘を打たれた所にさらに激しい苦しみが加わります。しかも急所を避けて釘を打ち込むために、血を流し続けながら、息絶える瞬間まで苦しみを受けなければならないのですから、最もむごい死刑法です。
それでは、イエス様が手と足に釘を打ち込まれなければならなかった理由は何でしょうか?これはまさに、人が手と足で犯したすべての罪を贖うための摂理でした。
<マルコの福音書9:43-45>に「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」とあります。私たちが手でしてはいけない事をして、足で行ってはならない所に行って罪を犯する場合がどれほど多いでしょうか?
したがって、罪が全くおありにならないイエス様が両手と両足を釘づけられて、血を注ぎ出されたので、私たちが手と足で犯す罪を贖ってくださったのです。イエス様を救い主として受け入れた人は、罪を犯した手と足を切らなくても、悔い改めれば赦され、さらに聖霊の力で罪を捨てることができます。このように、私たちの罪を赦して、地獄の火に投げ込まれないように、イエス様が残酷な十字架の苦しみをご自身で受けられたのです。
ところが、ある人々は「イエス様を救い主として信じます」と言って、口では「罪を悔い改めました」と言いながらも、相変わらず罪の中で生きています。<ヨハネの手紙第一1:6>に「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」とあります。また、<ガラテヤ人への手紙5:19-21>には、肉の行いをする者は神の国を相続することはありません、と書かれていますので、まことに心から罪を悔い改めたとすれば、同じ罪を繰り返し犯すことはできません。
イエス様が私たちの罪のために手と足に釘を打たれて苦しまれたことを本当に信じたら、再び罪を犯せないはずです。もう一度イエス様を十字架にかける罪をどうして犯せるでしょうか。もちろん、信仰が弱い時は繰り返し罪を犯す場合がありますが、そのような場合は心から悔い改めて、再び罪を捨てるために努力していけば、神様が赦しと恵みを施して、罪が捨てられる力を下さいます。

2. 信仰ですべての律法の呪いから解放された神様の子どもたち

イエス様が尊い血を注ぎ出して木にかかられ、代わりに呪いを受けられたので、これを信じる私たちは罪が赦されて、すべての律法の呪いから解放されました。イエス様を救い主として信じて受け入れた神様の子どもたちは、病気とわずらい、貧しさ、その他のあらゆる災いから開放されるようになったのです。
したがって、主を受け入れて神様のみことばどおり生きていく神様の子どもたちは、いつも守られます。仮に神様のみことばどおり生きていても、試練と患難が来たとすれば、これは祝福のための試練です。このような試練にあった場合、<ヤコブの手紙1:12>にある「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」というみことばどおり、感謝の心で勝利すれば、霊肉ともに祝福が臨むようになります。
反対に、神様のみことばどおり生きられなくて試練と患難が来た場合には、どのようにしなければならないでしょうか?この時は直ちに過ちを悔い改めて、立ち返ればよいのです。まず罪の壁を壊して、信仰で祈れば、試練と患難が離れるしかありません。ある場合は罪を犯したことによってではないけれど、人の間違いによって困難にあう時もあります。このような時も、神様に頼りさえすれば、神様が信仰のとおり働いてくださいます。
このようにイエス様が十字架につけられて呪いを受けられたので、誰でも信仰で罪の赦しを受けて、すべての律法の呪いから解放されたのです。それでは、私たちが「主よ、信じます」と告白するだけで、無条件に罪の赦しが受けられるのでしょうか?
<ヨハネの手紙第一1:7>に「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあるとおり、「光の中を歩んでいなければならない」という但し書きがついています。聖書のどこにも「私たちが罪を犯しても救われる」というみことばはありません。
<マタイの福音書7:21>にも「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」とあります。ですから、イエス様を救い主として受け入れて、罪を悔い改めて、再び罪を犯すまいと努力し、光の中を歩んでこそ罪の赦しを受けて、全き救いに至ることができるのです。

3. 十字架につけられたふたりの強盗についての記録の差

イエス様が十字架刑にあわれたとき、多くの群衆がイエス様をののしって、あざけりました。また、イエス様の十字架の両側には、ふたりの強盗がつけられた十字架も立っていました。<マタイの福音書27:44>に「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」と書かれています。これとは違って、<ルカの福音書23:39‐43>には、強盗のひとりはイエス様に悪口を言ったが、もうひとりは彼をたしなめたと記されています。
聖書の記録にこのような違いが生じる理由は何でしょうか?これは、聖書を読む後世の人々がその当時の場面をさらに実感できるように、神様が働かれたのです。ゴルゴタの丘の上に三つの十字架が立っていて、その周りには十字架刑を見ようと、多くの群衆が集まって騒いでいます。ローマの兵士たちは槍と盾を持って、押し寄せる群衆を防いでいます。この場面を想像してみてください。
このような状況でイエス様に悪口を言う強盗のほうに立っていれば、悪口を言う強盗の言葉は明らかに聞こえますが、反対側にいる強盗の言葉はよく聞こえません。ですから、悔い改めた強盗が、イエス様に悪口を言う強盗に向かってたしなめている姿が、悪口を言っている強盗の側に立っている人から見ると、まるで彼がイエス様に向かって悪口を言っているように見えます。しかし、悔い改めた強盗やイエス様のほうにいる人は、強盗の言葉とイエス様の言葉が聞こえて、記録も正確に残せます。
もちろん、全知全能の神様は記録する人に正確な内容を知らせて、記録させることもおできになります。しかし、記録にこのような差があるように許されたので、聖霊に感じて聖書を読む人々には、ちょうど映画のフィルムが回るように、生き生きした臨場感の中で当時展開された状況が鮮明に感じられるように働かれたのです。
したがって、私たちが聖書に向かうとき、人の思いに合わない分野があるならば、肉の思いでさばくのではなく、その中に含まれた霊的な意味を、聖霊に感じて悟ろうと努力しなければなりません。

愛する聖徒の皆さん、
イエス様が手と足を釘づけられた理由がわかったので、これからは罪を犯す手と足でなく、救い主の愛を伝える幸いな手と足にならなければなりません。さらに、聖霊に感じて神様のみことばを悟り、神様の子どもとされた特権と祝福を思いきり受けられますよう、主の御名で祈ります。


 

 

 
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